たくさんのドラマに出演している人気俳優の1人が三浦春馬さんです。役によって違った雰囲気を出せるところが、多くの人を魅了させるポイントですよね。またCMやナレーションの仕事など、さまざまなメディアでの活躍も目立っています。, こちらのページでは、三浦春馬さんが過去に出演していたドラマ番組がどのサイトで見ることができるかをまとめています。 主人公・荒川英人は、政府が定めた少子化対策「これまでに性体験のない30歳以上の男女を強制的にオトナ高校に通わせる」という法案の対象者に選ばれてしまいます。この不名誉な事実に愕然とする英人でしたが、現地に行くと、上司の権田もおり、さらにかつてナンパした相手・さくらと教師と生徒という立場で再会することになりました。プライドの高い英人は、何とか一番に童貞を卒業しようと焦りますが、やることなすこと空回りばかりするのでした。, 【あらすじ】 jra天皇賞・春(g1)最有力アリストテレスも震える「超新星」出現!? 三浦春馬さんが過去に出演していたドラマ番組がどのサイトで見ることができるかをまとめています。 ... 頭を殴打されて瀕死の重傷を負う。2日後、意識を取り戻すが、その中で重要な記憶の一部が欠落して … 市川一家4人殺害事件(いちかわいっかよにんさつがいじけん)は1992年(平成4年)3月5日夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県 市川市 幸二丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した強盗殺人・殺人・強盗強姦などの事件 。. 私立高校の教師として勤務する夏実は、同じ職場で高校から付き合いの教師・修二と婚約し、周りから祝福されていた。しかし、始業式前日に修二は、自分の生徒と知らずにひかりと一夜を共にしてしまい、それを夏実に知られてしまう。, 【あらすじ】 当然ここは、おふくろさんになる為.6歳襟裳の春の引退を間近に控え熱唱準備中、木村厩舎プリモシンイチだ!中京芝1200mは激走必至。 母母母父Kaapstadは2015年高松宮記念優勝馬.香港のエアロヴェロシティの母父という血統背景。 2014年のデビューからモデル業や俳優として活躍している金子大地さんが話題ですね! 2019年も映画『がっこうぐらし!』や『劇場版おっさんずラブ(仮)』に出演が決まっており、快進撃が止まりません。 気になったので調べてみると「金子大地 歯」という気になる検索結果が…。 東大を目指していた浪人生の宮原圭介は寝坊し、受験に間に合わせるため爆弾魔の名を語り、受験に間に合う。それで無事に東大に合格した圭介だが、そのことを知る田中宏志から脅されるようになる。, 【あらすじ】 三浦春馬と多部未華子は付き合っているんじゃないか?と話題になっています。 二人はカップル役になるのが3回目ということで、それほどまでにお似合いなのか、つきああっているんじゃないかとすら噂されています。 これまで数々の人気作品に出演してきたイケメン俳優・三浦春馬が出演しているおすすめのドラマを紹介します。もはや知らない人はいないと言っても過言ではない国民的俳優が出演してきた作品は、全てを紹介しきれないくらいあります。キュンキュンできる恋愛系 および3. ユーザーのアイデアを集めた世界最大のコレクション、Pinterest で Tanaka Chiaki(tanakanchiaki)さんが見つけたアイデアを見てみましょう。 麻布のバー「茗荷」のバーテンダーである、主人公・雨村慎介(三浦春馬)は。ある夜、見知らぬ男に襲われたことで、自分に関する一部の記憶を失う。しばらくすると、自分が一年半前に交通事故を起こし、ある女性の命を奪い 、執?猶予中の?であることを知る。そして自分を襲った犯人は、 その交通事故で亡くなった女性・岸中美菜絵(高橋メアリージュン)の夫であることを知る。慎介は失われた事故の記憶を取り戻そうとする。, 【あらすじ】 本名は三浦武介。 三浦春馬“4年に1度”の恋人・多部未華子に感謝「自然体でいられた」 [ 2019年8月22日 05:30 ] 芸能 きんに君 目指せモテ男! 前科を持ち、自堕落な生活を送っていた結城大地の前に、ある日かつての恋人・すみれが現れます。彼女には8歳になる娘・はながいて、その父親は大地でした。はなは重度の白血病を患っていて、骨髄移植をしないと助からない状態でした。大地は戸惑いますが、はなのドナーになる決意をします。その矢先、大地は柏木愛という見知らぬ女性を殺した濡れ衣を着せられ、警察に逮捕されてしまいます。その裏にはかつて自分を刑務所送りにした柴崎の陰謀がありました。大地は自分の潔白を証明し、2週間後のはなの骨髄移植を成功させるため、逃亡生活を決意するのでした。, 【あらすじ】 1: 名無しマン 2020/03/14(土) 17:49:30.15 Koya Kinoshita @koyakinoshita24 9日のパレルモ競馬場9Rにて。 黄色い帽子の③ラアジェグラ号に騎乗 市川一家4人殺害事件(いちかわいっかよにんさつがいじけん)は1992年(平成4年)3月5日夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県市川市幸二丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した強盗殺人・殺人・強盗強姦などの事件[2][9][4]。, 加害者少年S(事件当時19歳)は暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こし、暴力団から要求された現金200万円を工面する目的で事件1か月前に強姦した少女(事件当時15歳)宅のマンションに侵入して一晩で少女の両親・祖母・妹の一家4人を殺害した[2][4]。また、少女の家だけでなく両親が経営していた会社からも金品を奪い、殺害現場で1人残された被害者遺族の少女を強姦した[4]。, 平成の少年犯罪では初の死刑確定・執行事件(少年死刑囚)となった本事件は[10]日本社会を震撼させ[11]衝撃を与えるとともに[8][12][13]、その重大性から少年法の在り方などに論議を呼んだ[14]。なお、坂本敏夫は自著『死刑と無期懲役』 (2010) にて本事件を「日本では1990年(平成2年) - 1992年の3年間にわたり死刑執行が停止されていたが、1993年(平成5年)3月に再開された。本事件はそのきっかけになった事件ではないか」と指摘している[注 2][15]。, 本事件の加害者少年S・T(事件当時19歳)は[22][7]1973年(昭和48年)1月30日・千葉県千葉市生まれ[注 4][16]。事件当時は千葉県船橋市本中山二丁目在住[注 5][8]。刑事裁判で死刑が確定し、2017年(平成29年)12月19日に法務大臣・上川陽子の死刑執行命令(2017年12月15日付)により[23]収監先・東京拘置所で死刑を執行された(44歳没)[24][25][26]。本項目中では実名の姓に基づくイニシャル「S」と表記する[注 6]。, 18歳時点で身長・体重とも同じ18歳男性の平均をはるかに凌駕するまでに成長しており[16]、逮捕当時は身長178センチメートル (cm)・体重80キログラム (kg) と大柄な体格だった[注 7][30]。, ウナギの加工・販売業を営む母方の祖父X[注 8]の長女・母親Yと、Yと結婚して義父Xの店で働き市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Z[注 9]の間に長男として出生した[16]。出生当時は市川市内に居住していたが、後に両親が同県松戸市内に転居したことから同市内で幼少期を過ごし[注 10]、Sは1976年(昭和51年)には3歳で幼稚園に入園した[注 11][16]。1979年(昭和54年)4月には転居先の松戸市内の小学校[注 12][16]に入学し、1980年(昭和55年)9月には[注 13][16]東京都江東区越中島に転居したことから[注 14][33]同区内の小学校[注 15]に転校したが、父Zが莫大な借金を抱えて義父Xの経営する店に多大な損失を与えた上、暴力団員などによる厳しい借金の取り立てに遭った[注 16][16]。また、Zは結婚後に義父Xから店を1軒任されたが[38]、生活が落ち着いてくると仕事に精を出さずにギャンブル・飲酒・女遊びなどを優先するようになり[33]、愛人宅への外泊や妻Yに対するドメスティックバイオレンス(DV)[注 17]・自身や弟への児童虐待[注 18]を繰り返したため[40]、Sは自宅を居場所と感じられなくなっていた[注 19]。Sは両親からの虐待に苦しんでいた中で敬虔なエホバの証人[注 20]の信者だった親友から勧められたことがきっかけで聖書を勉強するようになったが、9歳の時に熱心に読んでいた聖書を父Zから「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てられたことに激昂して初めて父親に歯向かい、殴る蹴るなど一方的な暴力を振るわれつつも復讐を誓った[注 21][47]。, 1982年(昭和57年)12月[36]、当時小学4年生だったSは[34]母Y・弟(5歳年下)とともに夜逃げして[16]葛飾区立石のアパートへ移住した[注 22][16]。Sは1983年(昭和58年)1月から[16]葛飾区立清和小学校に通学したが[34]、両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でいじめを受けるなど、不遇な生育環境で不遇感を抱いて育った[注 23][16]。また、このころには唯一の庇護者だった祖父Xからも見放された[注 24]ことで劣等感を募らせ[49]、万引きをするようになったほか[52]、放課後には浅草で観光客を標的に置き引き・スリ・かっぱらい・賽銭泥棒などの非行を繰り返し「世の中は金が全てだ。貧乏を笑うようなやつらからはいくら金を盗んでもいい」と考えるようになった[注 25][55]。, 1985年(昭和60年)4月には[16]葛飾区立立石中学校へ入学したが[17]、体格・腕力ともに大きく成長して同世代の少年を圧倒するようになったため[56]、それまでのように一方的にいじめられることはなく、やられたらやり返すようになるとともに「たいていの場合には自分の腕力が通用する」と知った[16]。また当時所属していた少年野球チームではエース投手兼4番打者として活躍していたが[56]、このころから地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められ仲間に誘われた[注 26]ことをきっかけに非行がエスカレートしていき、母親Y・弟への家庭内暴力を加えるようになった[注 27][60]。なおこのころには祖父Xも母親Yと関係を修復し[61]、Y一家はXから経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが[62]、Sは祖父Xを「一番辛くて寂しい時に俺を裏切って助けてくれなかった」と恨んでおり、以前のように尊敬することはできなくなっていた[61]。中学卒業後の1988年(昭和63年)4月には[16]堀越高等学校普通科大学進学コースに入学したが[注 28]、1年後の1989年(平成元年)5月31日付で[17]中退した[注 29][16]。, 高校中退後(1989年11月ごろ以降)は祖父Xの経営していたウナギ加工・販売などの仕事を手伝っていたが[注 30]、店の売上金を複数回盗んだほか[注 31][69]、1990年(平成2年)1月17日には祖父Xから盗みの疑いを掛けられたことに激怒し、22時ごろに祖父X宅へ赴き就寝中だったXの顔面を蹴るなど暴行を加え[16]、Xの左目を失明させる事件を起こした[注 32][69]。また鰻屋の同僚には不良が多く[注 33]、同僚たちから非行や喧嘩の方法を教わったほか[66]、自分を挑発してきた同年代の同僚に対する暴力沙汰も起こした[72]。また母や弟への家庭内暴力[注 34]・不良仲間らとの徘徊行為・飲酒・喫煙を行うなど生活は荒れていった[注 35][16]。家庭内暴力に耐えかねた母親YはSを別居させるため[62]、1991年6月から契約金58万円余りを出して船橋市本中山のアパート[注 5]で一人暮らしさせたが[16]、その後も近隣住民とのトラブルを起こしていた[22]。事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗など多数の事件を起こしたほか[注 36]、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった[注 37][16]。, 中学生時代から女性経験があり[注 38]、中学3年時からは同級生の少女と交際していたが[81]、互いに深夜まで出歩いたり親の財布から金を抜き取るなどしていたため、高校中退後の秋になって少女の両親がSの母親Yに「うちの娘はSにたぶらかされたせいで悪くなった。警察に訴えてやる」と苦情を入れてきた[82]。結果、互いの親同士が協力して2人を別れさせることになったが[注 39]、Sは少女の父親が彼女を自分から引き離そうと東北地方の親戚宅に預けたことに激怒し、ナイフで少女の父親を脅迫して少女を連れてくるよう迫ったことで軽犯罪法違反に問われ家庭裁判所に書類送致された[注 40][85]。またアパートで独居を開始してからは3人の女性と同棲生活を試みたが、いずれも短期間で相手に去られたため長続きしていなかった[注 41][16]。しかし鰻屋で働いていたころ、店の先輩から市川市内のフィリピンパブに連れて行かれたことがきっかけで複数のフィリピンパブに足繁く通うようになり、1991年7月ごろにはそのうちの1軒で働いていたフィリピン国籍の女性(当時21歳 / 1970年10月29日生まれ)[注 42]と知り合い、やがて恋愛関係に発展して時折店外でデートをするようになった[88]。その後、その女性とともにフィリピンまで赴いて1991年10月31日に正式に結婚し[注 43]、日本へ連れ帰って自宅アパートで同居していた[注 44][16]。しかし妻は姉の病気を心配して事件直前(1992年1月22日ごろ)にフィリピンへ帰国して[注 45]二度と日本に戻らなかった[16]。女性の帰国は夫Sの了承の下だったが、Sは「妻がいなくなったことで鬱屈した気分になった」ことから「新しい女性を引っ張り込もう」と考え、それが凶行の遠因となった[91]。, 被害者一家は市川市幸二丁目の新興住宅街に建つ9階建てマンションに住んでいた[注 46][94]。千葉地裁 (1994) は判決理由で被害者一家について「慎ましくも平穏な暮らしを営んでおり、本来ならば娘2人の成長を温かく見守りつつ会社の経営を盛り立てて平穏に生活できたはずの家庭」と述べている[95]。, 被害者男性Aは事件2年前の1990年ごろに寄稿していた料理雑誌『月刊食堂』(柴田書店)の元編集長・玉谷純作に対し「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるのであちらに拠点を持って活動したい」と話していたが、その夢はSの凶行により断ち切られた[注 47][22]。被害者一家4人の葬儀を仕切った住職は『東京新聞』記者の取材に対し「被害者4人の遺骨はA・Dそれぞれの親族に引き取られた」と証言した[97]。, Sは一家殺害事件前年の1991年(平成3年)10月19日16時50分ごろ、愛車のトヨタ・クラウンロイヤルサルーン[注 55]を運転して東京都江戸川区上篠崎の道路(祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近)を走行していた際、自分の前を走行していた車両(運転手:当時34歳男性)に対し「速度が遅い」と立腹した[3](いわゆる「あおり運転」)。男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側へ駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回しエンジンを停止させた[3]。男性が車を降りるとSは突然その顔面を拳で複数回殴りつけ、男性を支店の建物内へ連れ込み、店の厨房内に置かれていた鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた(罪状その1・傷害罪)[3]。, 祖父Xは1992年1月ごろ、Sから危害を加えられることを避けるために店舗内で寝泊まりしていたが、Sはその店舗の窓ガラスを割って店内に侵入し、就寝中のXを起こし現金110万円などを奪い取った[注 56][95]。1992年2月6日、Sは市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出して店に無断で自宅アパートに泊め[6][91]、このホステスと性的関係を持ち、ホステスをマンション自室に閉じ込めて負傷させた[62]。その2日後(1992年2月8日)、店に帰ったホステスがこのことを店の関係者に泣きながら訴えると、激怒した店の関係者が暴力団に「落とし前」を依頼したため、それ以降Sは暴力団に追われる身となった[91]。, 1992年2月11日4時30分ごろ[3]、Sは東京都杉並区高円寺に住んでいたバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰宅しようとしていた際[118]、東京都中野区新井の路上でアルバイト先から帰宅途中の当時24歳女性が1人で左側歩道上を歩いているのを見つけ、「鬱屈した気分を晴らすために女性を殴ろう」と考え、道を尋ねるふりをして女性に近づいた[3]。その直後、突然女性の顔を拳で思い切り数回殴りつけるなど暴行を加えて全治3か月半の傷害(鼻骨骨折・顔への擦り傷)を負わせた(罪状その2・傷害罪)[3]。Sは座り込んだ女性の顔を見たところ「意外に若い」と思ったために「この女性を強姦しよう」と考え、女性の髪の毛を鷲掴みにして引っ立てると「車に乗れ」と脅して女性を抱きかかえるようにクラウンの後部座席に押し込み車を発進させた[3]。そして女性に対し「病院に連れて行く」などと言いつつ車を走行させ、船橋市本中山の自宅アパートに連れ込み、6時30分ごろに自室アパートで女性を全裸にして強姦した(罪状その3・強姦罪)[注 57][3][121]。しかし同日夜、前述のホステスの件で自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛けたため、Sはクラウンに乗車して逃げたが[119]、店から依頼されていた外国人ホステス斡旋業者らがSを車から引きずり降ろそうとクラウンの後部窓ガラスを叩き割った[6]。, 検察官は罪状2. 同級生に関連する、スカパー!で視聴できる番組の放送番組一覧。今話題の番組やおすすめ情報はもちろん、チャンネル別の番組表や出演者情報もご確認いただけます。 mur閣下とは、2008年の映画『イップ・マン 序章』に登場する池内博之演じる三浦 将軍のことである。 階級については明言されていないが、佐藤 大佐の上官である事を鑑みると少将以上と思われる。 概要. の傷害・強姦事件に関して「Sは当初から女性に対する強姦の犯意を抱いていたため、女性への一連の犯行は全体として強姦致傷罪の一罪に該当する」と主張したが、千葉地裁 (1994) 判決は「被告人Sは捜査段階・公判を通じて『女性に暴行を加えた後、顔を見て『意外に若い』と思ったから俄かに欲情を催して強姦の犯意を抱いた』と主張している。その供述に反する証拠は見当たらず、客観的状況も供述と矛盾しない」ことを理由に「被告人が強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪・その後行われた強姦罪の2罪がそれぞれ別々に成立する」と事実認定している[122]。, Sが通りすがりの女性を強姦してから約22時間後(1992年2月12日2時ごろ)[3][119]、夜遅くまで勉強していた少女Bは途中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアへ行き、買い物を終えて帰宅しようとしていたところだった[3][103]。当時クラウンを運転していたSは帰宅途中だったBを見つけ、マンション前の狭い路地で背後から近づき、自転車の後輪にクラウンの左前部を衝突させた[3]。Bは自転車ごと路上に転倒して路上に投げ出され、右膝に擦り傷を負った[103]。, 車から降りたSはBに「病院に連れて行く」と優しく声を掛けた上で[103]ひき逃げと訴えられないようBを車に乗せて浦安市内の救急病院で治療を受けさせた[3]。Bは当初こそSを警戒してはいたが、治療をさせてもらった後で「自宅まで送り届けてもらう」と約束されたことで安心した[123]。しかしSはBを自宅に送るために市川市・船橋市方面に向けて車を走行させていた途中でにわかに劣情を持ち[注 58][3]、人気のない路肩に停車し[123]、刃渡り約6.7 cmの折り畳み式ナイフ(平成5年押収第52号の2)をBに突き付けた[3]。Sはナイフの刃をBの手の指の間にこじ入れてこね回しながら「黙って俺の言うことを聞け」と脅し[注 59][3]、抵抗したBに対し[103]左頬・左手を切り付けて顔面挫創・左手挫創の傷害(全治約2週間)を負わせた[3]。SはBをそのまま自分のアパートまで拉致し[103]、同日3時ごろ - 6時ごろまでの間に自室アパート内で2度にわたりBを強姦した(罪状その4・強姦致傷罪)[3]。Sはその後、Bの手足を縛って抵抗を抑圧した上でBの所持品を物色して現金を奪ったが、その時にBが通っていた高校の生徒手帳を見つけ、住所・氏名を控えた[125]。しかしBはSがいったん外に出てから部屋に戻るまでの間に自力で逃げ出した[125]。, BはSに襲われ強姦された翌日(1992年2月13日 / バレンタインデーの前日)、自宅までチョコレートを贈りに来た同級生の少女に刃物で切り付けられた顔(耳の下 - 顎)の傷を見られ「何があった?」と聞かれたが、その際には「ローソンからの帰り道で男に襲われた」と話していた[注 60][126]。その後、この同級生らから被害届を出すよう説得されたため、Bは1992年2月末ごろに葛南警察署(千葉県警察)[注 1]へ被害届を提出したが[126]、Sは顔見知りではなかったことなどから捜査線上に浮上しなかった[110]。, Sは二晩続けて通りすがりの女性を強姦したことで自分の力に自信を持ったが[103]、2月12日夜には暴力団(住吉会系列)組長から東京全日空ホテル(現:ANAインターコンチネンタルホテル東京 / 東京都港区赤坂)へ呼び出され[127]、組長とその手下(Sが連れ出したホステスと関係のある暴力団組員)から「お前のやったことは誘拐だ。彼女(ホステス)が在留期限を待たずに帰国したら店の損害は200万円になる」などと遠回しに金員の支払いを要求され、このトラブルに関して「それなりのことをするつもりだ」と答えてその場を辞去した[6]。しかし当時のSはいまさら暴力団員に支払う金員を祖父X・母親Yから出してもらうわけにはいかず、他に金策する当てもなかったため[6]、暴力団の取り立てを恐れて車中泊を続けており[128]、事件当日ごろには所持金も底を尽きていた[100]。Sは暴力団に脅されてから事件当日までの約20日間「このままだといずれ暴力団に殺されるかもしれない」と恐れていた一方、交通トラブルで2度の暴力・恐喝事件を起こした[128]。, 1992年2月25日(火曜日)5時ごろ、Sはクラウンを運転して千葉県道6号市川浦安線旧道(市川市河原6番18号先)を走行していたところ、後ろを走っていた乗用車(運転手:当時22歳男性)から[3]車間距離を詰められて煽られたために激昂し、クラウンを急停車させ[129]相手の進路を絶った[3]。後続車が停車した直後、クラウンを降車したSはトランクから鉄筋[130](鰻焼台用鉄筋:全長約122 cm)[3]を取り出して右手に握り、その鉄筋を威嚇するように1, 2回振り回してから後続車のドアを開け[130]、相手車の運転席に近づいて「煽ってんじゃねえよ」などと男性を恫喝し、空いていた運転席側の窓から手を差し入れて男性の車のエンジンキーを抜き取り[3]、相手の退路を絶った[130]上で自車に戻った[3]。これに激昂した男性はエンジンキーを取り戻そうとSに追いすがったが、Sは鉄筋で男性の左側頭部を1回殴りつけた[3]。男性は血まみれになり、両腕で頭を抱えてうずくまったが[3]、Sは男性に対し「お前のせいでブレーキパッドがすり減った」などと怒鳴りつけながら[130]男性の左半身を多数回殴打し、安静加療約10日間を要する頭部挫創の傷害を負わせた(罪状その5・傷害罪)[3]。さらに男性から金品を恐喝しようと考えたSは暴力団組員を装って男性の車の運転席に乗り込み、同日5時過ぎごろ - 6時ごろまでの間にトラブルの現場から市川市塩浜二丁目31番地先の路上を経由して再びトラブル現場(市川市河原6番18号先)まで車を運転し、「俺たちの相場ではこういう場合は7, 8万円だ。金曜日(2月28日)までに用意しておけ。免許証はその時まで預かっておく」などと男性を脅迫して金品・運転免許証を出すように脅して金員を要求し、男性名義の自動車運転免許証1通を脅し取った(罪状その6・恐喝罪)[3]。, その2日後(1992年2月27日0時30分ごろ)、Sはクラウンを運転して埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)東町一丁目7番26号路上を走行していたところ、乗用車(運転手:当時21歳の男子大学生)に追い越されたため立腹し、付近で赤信号のために停車した大学生の車の前方にクラウンを停車させて行く手を阻んだ[3]。そして大学生が降車すると「ヤクザ者をなめるな」などと脅迫しながらズボンのポケットから前述の強姦事件で使った折り畳みナイフ(平成5年押収第52号の2)を取り出して「これで刺してもいいぞ」と言い、大学生の左太腿を突き刺した[3]。その上でSは大学生の車の運転席に乗り込み、大学生を助手席に座らせ、自ら大学生の車を運転して岩槻市大字加倉1943番地路上まで移動した[3]。その間、Sは大学生に対し「お前が滅茶苦茶な運転をするから俺の車のタイヤが擦り減った」などと恫喝したが、脅迫の手ごたえがなかったことに激昂して「お前の親父のところに連れて行け」と大学生を脅迫したほか[131]、車内で大学生の身体20数か所(左右の大腿部・右肩・腕・背中など)をナイフで突き刺したり切りつけたりして全治約6週間を要する傷害(全身刺創・全身切創、右手第三指〈中指〉および第四指〈薬指〉伸筋腱断裂など)を負わせたが(罪状その7・傷害罪)、大学生は血まみれになりながらも命からがら自分の車から逃げ出した[3]。Sは大学生の車で相手を追いかけようとしたが「轢き殺すとまずい」と思ったために断念し、後日金を脅し取ることにした上で[132]、大学生が逃げ出した後の同日1時20分ごろには岩槻市東町一丁目7番24号先路上に大学生から奪った車を移動させ、「住所・氏名を確認する目的」で車内にあった大学生名義の運転免許証1通・大学生の父親名義の自動車検査証を窃取し(罪状その8・窃盗罪)[3]、大学生の車を運転して前述の現場に残した自車に戻った[132]。, しかしSは暴力的な恐喝を繰り返しても暴力団から要求された額(200万円)を得られず、金の工面に困り恐怖・焦燥感を抱えていたため[132]「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと思案した末に、2月12日の強姦致傷事件の際に住所・氏名などを知っていた少女B宅に侵入して金品を盗むことを思いついた[6]。Bを強姦した事件以降、SはB宅の在宅状況を探る目的で時間を変えてB宅の電話番号へ何度か電話をかけた結果[6]「午後は留守か老女(殺害されたBの父方の祖母C)が1人でいる」と確認していたほか[133]、2月下旬・3月1日の2度にわたって現場マンションに赴き、マンションのエレベーターを使用して8階まで上がった上で「B宅は806号室にある。マンション1階のエレベーターホールには防犯カメラが設置されている」ことなどを確認した[6]。, Sは事件当日(1992年3月5日)、既に所持金がほとんどなかったが朝からパチンコ・ゲームセンターで時間を潰したり、午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べたりした[100]。その後「B宅に侵入して現金・預金通帳などを窃取する」意思を最終的に固めた上で市川市幸のB宅に向かったが[6]、この時には「ついでにBを再び強姦すれば暴力団からの追い込みで鬱屈した気持ちも晴れるだろう」とも考えていた[134]。事件現場一帯はSの母方の祖父母の家(母親Yの実家)の付近で、幼少期によく祖父母宅に泊まっていたSは当時まだ空き地だった現場一帯で凧揚げをしたり自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため一帯に土地勘があった[133]。現場付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた[135]。, Sは16時ごろ、クラウンを運転してマンション付近に赴き[6]、マンション近くのタバコ屋前にクラウンを駐車した上で付近にあった公衆電話を使用してBの自宅に電話を入れた[133]。当時、実際には後述のようにBの祖母Cが在宅していたが、電話に誰も出なかったためSは「留守だ」と思い[133]、クラウンをマンション近くの公園の脇に停車して下車し、Bの自宅マンションに入った[6]。Sは防犯カメラが設置されていた1階エントランスを避けて外階段を使い2階まで上ったが、2階 - 8階(B一家が在住していた806号室)まではエレベーターを使用した[注 61][6]。そして806号室玄関前に着くと部屋のインターホンを鳴らしたが、この時もインターホンへの応答がなかったため改めて「留守だ」と思い[137]、806号室の玄関口ドアを「試しに開けてみよう」と考えて[6]ドアノブを回したところ[137]、ドアは意外にも施錠されていなかった[6]。ドアが開いたため「誰かがいる」と焦ったSはすぐにその場を離れたが[137]、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見ても家人の気配がなかったため、16時30分ごろに玄関口から再びドアを開けて806号室に忍び入った[注 62][6]。当時は「この普通のマンションに現金は200万円も置かれていないだろう」と考えていたため、貴金属類・預金通帳を見つけたら家人に気付かれる前に速やかに逃走するつもりだった[注 63][137]。, 忍び入った直後には室内の照明は消灯してあったため、改めて「留守だ」と確信したが[137]、玄関脇の北側洋間からテレビの音を聞いたため[4]、Sが部屋の扉を開けて[137]洋間の室内を覗くと[4]、1人で室内にいた[137]高齢女性C(男性Aの実母 / 少女Bの父方の祖母)が室内で[4]テレビをつけたまま寝ていた[137]。Sは自分の靴をベランダに隠し[140]、玄関突き当りにある居間に入って現金・預金通帳・貴金属類などを物色したが、目的とする金目の物はなかなか見つからなかったため、「Cを脅迫して現金などを強奪することに如くはない」と決意し、この時点で強盗の犯意を有した[4]。, 洋間に踏み込んだSは[140]就寝中だったCを脚を蹴り上げて起こした[注 64][4]。目を覚ましたCは「見ず知らずの男が目の前にいる」ことに驚いたが[140]、寝込んでいたところを突然起こされた上、高齢のため抵抗もままならなかった[4]。SはCに危害を加える気勢を示しながら[4]預金通帳・現金を出すようすごんだが[137][141]、Cは同室出入り口付近にあった棚に置かれた財布から現金8万円を取り出し[4]、それをSに渡して[141]毅然とした態度で帰るように諭し[137]部屋から逃れようとした[4]。これに対し「バカにされた」と逆上したSはCの後襟首につかみかかってCを引き戻し、再び通帳を出すよう要求して危害を加える気勢を示したが[4]、Cは頑なに応じなかった[142]。, Sはこの時に緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけ」と言い置いた上でトイレに行って用を足したが、トイレから戻ったところ[142]、Cが隙を見て居間に出て電話の受話器を取り上げ、警察に110番通報しようとしていたため[注 65]、とっさにCに体当たりしてCを仰向けに突き倒し、右尺骨および右脛骨を離開骨折させる重傷を負わせた[4]。SはそのままCに「何をするつもりだったんだ」と問い詰めて[4]殴り掛かろうとしたが[142]、Cから顔面に唾を吐きかけられたために激昂し[4]、Cを頭ごと激しく床に叩きつけたが、CはなおSに抵抗し、爪を立ててひっかいた[142][141]。これに逆上したSは殺意を持ってCに馬乗りになり[4]、近くにあった電気コードを抜き取り[142]電気コードをCの頸部に一周させて前頸部で交差させた上で、電気コードの両端を両手で持って引っ張ることでCの首を絞めつけた[4]。一度力を緩めるとCが起き上がる気配を示したため、Sは再度力を込めてCの首を数分間絞めたことで被害者Cを窒息死させて殺害した(罪状その9 / 判示第六・強盗殺人罪)[注 66][4]。, SはCの脈拍を調べて死亡を確認すると、Cの遺体の首に巻かれていた電気コードを抜き取った上でCの遺体を引きずって北側洋間に敷かれていた布団に寝かせ、家人が帰宅した際に就寝中だと思わせるように偽装工作した[注 67]ほか、いったん外に出て付近の自動販売機でタバコ・ジュースを購入し[注 68]、約30分後に現場806号室へ戻った[4]。室内に戻ったSは、家人から金員を強取する目的で帰宅を待ち受けた一方、その間もさらに室内を物色し、Cの遺体を放置していた北側洋間内の出入り口付近にある棚に置かれていたバッグ内にあったCの財布から現金約10万円を強取し、その後も引き続き居間の中で金品を物色していた[注 69][4]。少女Bはこの時、学校帰りに父親Aの会社に寄り、母親Dと買い物をして家路に向かっていた[99]。, 19時過ぎごろになって少女B・母親Dが買い物から帰宅したが、当時室内を物色し続けていたSはこの時までに家人の帰宅に備え、予め台所流し台の下から数本の包丁を冷蔵庫の上に移して隠していた[4]。Sは2人が帰宅すると冷蔵庫の上に隠していた包丁のうちの1本である柳刃包丁1本(刃渡り22.5 cm / 平成5年押収第52号の1)[注 70]を手に取り、台所のカウンター付き食器棚の陰に隠れた[4]。そして、何も気付かずにそのまま居間に向かおうとしたB・D両名を待ち伏せて台所から飛び出し[150]、2人に退路を断つようにして立ち塞がって包丁を突き付け「静かにしろ。あまり騒ぐと殺すぞ。ポケットのものを全部出せ」などと申し向けて脅した[4]。しかしDは包丁を手にしていたSに対し怯えることもなく、逆にSを「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたため、SはDの「頭の切れそうな態度」に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた[注 71][144]。, Sは「女とはいえ2人を一度に相手にすることは無理だ。もし別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる。2人が走って逃げ出し大声でも上げられたら終わりだ」と考えたため[147]、「伏せになれ」と2人を脅して居間の床に並んでうつ伏せにさせた[4]。その上で、既に殺害した祖母Cについて「睡眠薬で眠っているだけだ」と嘘を述べ[95]、2人のポケットの中に入っていた所持品をすべて出させた[149]。母子2人を無抵抗にしたSは[147]、Dを「頭が切れそうな感じなので、策を練って自分を警察に突き出そうとしている」と危惧したためDの動きを封じようとし、「数回背中を突き刺せばDが死亡する危険性が高い」ことを認識・予見しながら敢えて包丁を逆手に持ち、うつぶせになっているDを左腰部から背中を立て続けに計5回包丁で突き刺し、被害者Dを背部刺創により失血死させて殺害した(罪状その10 / 判示第七・強盗殺人罪)[4]。, 包丁で5回刺されたDは致命傷を負って[注 72]仰向けに倒れ、激痛・苦痛でうめき声を上げて身をよじって仰向けになったが、脚で床を蹴りながら約1メートル (m) ずり動いて床に置いてあったSのジャンパーに近づき、やがて失禁した[149]。しかしSはDへの救命措置を講じようとせず[149]、自分が脱ぎ捨てたジャンパーにしがみつく姿を見て「血が付くだろう」と言いつつ[151]、Dに容赦せずその脇腹を足で蹴ってダウンジャケットから遠ざけた[149]。そして「(刺されたDを)帰ってくる家人に見られてはまずい」と考えたため[151]、少女Bに瀕死の母親Dの足を持たせ、絶命寸前のDの体を居間から南側洋間に運び入れ、Bに床に残ったDの大量の血・失禁の跡を拭わせ、自らもそれらを拭き取って証拠隠滅を図った[95]。, この時点でBは母親Dを自分の目前で刺され恐怖していたが、後に父親Aも同様に目前で刺され[95]、そのショック・恐怖で茫然自失状態に陥った[152]。また(別の部屋で既に殺害されていた)祖母Cについてもその死を知らず[153]、(寝かしつけられた妹Eも含めて)その身に危害を加えられることを恐れていたため[152]、妹Eを目の前で刺殺されるまではSに抵抗できない状態だった[154]。そのため、Bは(Eが保母に連れられ帰宅した際、および父親の会社へ預金通帳を取りに行かされた際に)外部の人間と接触したにも拘らず、助けを求めることができなかった[注 73][153]。, SはDを殺害した直後から警察が突入してくる翌朝まで現場室内にBを監禁した[95]。Dを殺害してから15分後には保育園児の妹Eが保母に連れられて帰宅したが、Bがドアを開けてEを部屋に入れた[99]。SはBに命じて夕食の準備をさせてB・Eとともに3人で食事を摂り、食後にEを絞殺された祖母Cの部屋に追いやってテレビを観せた[注 74][151]。, 一方で少女Bから「父親は23時過ぎに帰って来る」と聞かされたために「金品を強取するためにその帰宅を待とう」と決意するとともに「気分転換のためにBを強姦して気を紛らわそう」と考え、21時20分ごろには先ほどDを刺した包丁で少女B[注 75]を脅して[4]寝室に連れ込み[104]、その上でBに対し「服を脱げ」などと迫ったが[4]、Bは目の前で母親を惨殺されて恐怖に震えていたためにうまく手が動かず[104]逡巡していた[4]。これに腹を立てたSはBをベッドに突き倒し[104]、Bの着ていたワイシャツの襟を引っ張ってボタンを引きちぎるなどの暴行を加えてその反抗を抑圧し、Bを全裸にさせると自らも衣服を脱いで全裸となってBにのしかかり、2月の事件から数えて3回目となる強姦を行った(罪状その11 / 判示第八・強盗強姦罪)[4]。, しかしSの予想より早く21時40分ごろ(強姦行為の最中)に父親Aが帰宅したため、Sは慌ててBの身体から離れ、服を着てカウンター付き食器棚の上にいったん隠していた柳刃包丁を手に取り、食器棚の陰に隠れた[4]。男性Aがその状況に気付かず居間に入り、ベッドで横になっている娘Bを見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、Sは金品を強奪する意図でAの背後から左肩を包丁で一突きして反抗を抑圧した[注 76][注 77][4]。, Sは負傷して動けなくなったAに暴力団組員の名刺を突き付けて脅すとともに、組員を装い「お前が取材して書いた記事で(自分の)組が迷惑している」と架空の事実を突きつけて因縁を付け、「通帳でも現金でもなんでもいいから200万円くらい出せ」と脅迫した[4]。Aはまだ「妻D・母Cが目の前の男に殺された」とは知らず、「家族を守ろう」と必死だったため、Sに母親の通帳のありかを教えてしまい、娘Bに指示して宅内の現金16万円を集めさせた[158]。Sはその16万円と祖母C名義の預金通帳2冊(額面合計360万7,792円)[注 78]を強取したため[4]、この時点で暴力団組員から要求されていた200万円を手に入れたがまだ満足しなかった[159]。なお、現場806号室の真下の部屋に住んでいた住民は捜査本部の聞き込みに対し「同日23時30分ごろに上の部屋で『ドスン』と大きな音がした」と証言している[9][102]。, Sはこの時点で致命傷を負っていたAから「勤務先の会社に行けば別の預金通帳・印鑑がある」と訊き出したためにそれも強取することを考え[4]、Bに命じて事務所に電話を掛けさせた[158]。SはBをして職場に残っていた社員へ「これから通帳を取りに行く」と伝えさせ、日付が変わった1992年3月6日0時30分ごろには居間で動けなくなり横たわっていたAを806号室に残し、Bを連れて同室を出た[4]。そしてエレベーターでBとともにいったん1階まで下りたが[158]、「Aをこのまま生かしておけば警察に通報される恐れがある」と考えてAを殺害することを決意し、Bを1階に残して806号室まで引き返した[4]。, 1992年3月6日0時30分ごろ[4][158]、Sは既に預金通帳などの所在場所を訊き出し、無用の存在となっていた被害者A[注 79]を「後顧の憂いを断つため、即ちとどめを刺して口封じをする目的」で殺害した[156]。Sは包丁でAの背中を1回強く突き刺し[注 80]、被害者Aを背部刺創により失血死させて殺害した(罪状その12・判示第九 / 強盗殺人罪)[4]。SはAにとどめを刺した後、反抗を抑圧されたBをクラウンに乗せて道案内させて行徳駅前の事務所に向かった[4]。, 1992年3月6日0時40分ごろ、SはA・D夫妻の経営していた会社の事務所があった千葉県市川市行徳駅前所在のビル前に赴き、Bに「人がいるとヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて事務所に向かわせた[4]。Bはビル204号室[注 81]にあった事務所に向かい、事務所内で寝泊まりしていた同社従業員の男性に「ヤクザが来ていて『お父さんの記事が悪い』とお金を取りに来ている」と告げ、事務所内から会社名義及びA・D夫妻名義になっていた預金通帳計7冊(額面合計63万5,620円)・印鑑計7個を持ってSが待っていた自動車内まで戻った[4]。, Sはその後、それら通帳・印鑑をBから受け取ることで強取したが[4]、Bが事務所に行っていた間に空腹を覚えたため[105]、近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買って食べていた[21]。SはBが事務所に現れてから約20分後に事務所へ現れたが[21]、その際にBに「おい、行くぞ」と声を掛け[注 82][99]、2人で印鑑・通帳を持って行った[160]。Sがビル1階にいた一方、Bは20分間にわたりビル2階の事務所にいたが、前述のように祖母C・妹Eに危害を加えられることを恐れていたため[153]、この時は特に従業員に助けを求めることはなかった[159]。, 一方でBの行動を不審に思った従業員は派出所に連絡し、1時30分ごろに葛南警察署員[注 1]とともに806号室に出向いた上で[161]部屋のドアを叩いたり室内に電話をかけたりしたが[99]、この時は部屋の照明が消えており応答もなかったため、署員は「不在だ」と思い引き揚げた[21][159]。なおこの時点ではいずれも前述したようにBの両親(A・D夫妻)および祖母Cの3人は既に殺害されていたが、寝かしつけられていた妹Eはまだ生存していた。, 通帳・印鑑7組を奪ったSはそのままBをクラウンに乗車させて市川市塩浜三丁目にあったラブホテルにBを連れ込み、このホテルの5階501号室で一夜を過ごした[4]。Sはこの間、ラブホテル室内で30分ほどかけて通帳の額面を調べたり、印鑑・通帳の印影を確認したりしていた上、ここでもBを強姦した(4度目)[105]。そして4時間近く熟睡し、目覚めてからBに5度目の強姦を行った[105]。, 3月6日6時30分ごろ、SはBとともにマンション806号室へ戻り[105]、既に一家3人が死亡していた部屋でしばらく時を過ごしていたが[注 83][162]、寝室で寝かせていたBの妹Eが目を覚まして[4]泣き始めていた[105]。Sは「Eが両親・祖母の死を知って泣き叫べば、近隣住民にその声が聞こえて犯行が発覚する」と恐れたため、その発覚を免れる目的でEを殺害することを決意し、6時45分ごろになって食器棚のカウンター上においてあった前述の柳刃包丁(A・D夫妻を殺害した際の凶器)を右手に持って寝室に入ると、自分に背を向けて布団の上に上半身を起こして座っていたEに近づき、その背後から左手でEの顎のあたりを押さえつけながら、殺意を持ってその背部を包丁で1回突き刺した[4]。この刺突行為は包丁がEの幼い体を貫通し、刃先が胸まで突き抜けるほどのもので[148]、Eは「痛い、痛い」と弱々しく声を出してもがき苦しんだ[154]。SはBに対し「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と言い放ったが[95]、Bは動けなかったため、自ら激痛で泣き叫ぶEの首を絞め上げ[154]、背部刺創による失血死で絶命させた(罪状その13 / 判示第一〇・殺人罪)[注 84][4]。, Bはこの時までに目の前で家族を皆殺しにされ、自らも複数回陵辱されたことで心身ともに打ちのめされていたが[注 85][154]、目の前でEが殺害された直後(6時50分ごろ)に「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かった[4]。しかしSは「突然のBの反抗」に逆上して包丁を振りかざし、Bの左上腕・背中を切り付け全治2週間の怪我(左上腕切創、背部切創)を負わせた(罪状その14・傷害罪)[4]。, 結果的に室内でのSの犯行は5日16時30分ごろ(侵入・Cを絞殺) - 6日6時50分ごろ(Bへの傷害)と約14時間に及び、一晩で家族4人を失った被害者Bは帰宅(19時過ぎ)[4] - 警察出動(6日9時ごろ)[164]まで監禁され続けた。一家4人の人命が奪われたこの事件でSに強奪された被害総額は現金合計約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万円余り)に上り[95]、後に被告人Sと文通した『東京新聞』(中日新聞東京本社)社会部記者・瀬口晴義は「検察官による冒頭陳述書を読んで『凶悪・凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面』の連続で吐き気を催したほどだ」と述べた[50]。, 一方でA・D夫妻の会社事務所に勤めていた男性社員は深夜にBが訪問してきたことを不審に思っていたが[154]、3月6日早朝に自宅の電話に再びBから「金の工面を求める電話」を受けたため[160]「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、同日8時過ぎになって[21]マンションに電話を入れた[160][154]。社員からの電話に出たBは「おはよう」と言ったきりそのまま電話口で押し黙ってしまったが[99]、従業員が「脅している奴が部屋にいるのか」と尋ねるとうなずいた[21]。従業員はBの対応が不自然だったことに加え[21][161]、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており呼んでも返事がなかったことを不審に思い[94]、9時ごろになって近隣の葛南警察署[注 1]行徳駅前交番に「知り合いの社長の娘から不自然な電話があった。家族が刺されたらしい」と110番通報(Sが事務所に来た直後以来2度目)した[21]。, その後、従業員が派出所の警察官とともに部屋の玄関前へ駆け付けたが、玄関は施錠され呼んでも返事がなかった[94]。そのため署員が隣の部屋からベランダを伝って窓から806号室に踏み込んだところ[2]、室内の壁などに血が飛び散り[2][102]、一家4人がそれぞれ別々の部屋で死亡していた[注 86][2][94]。また、室内では警察官が現場に駆けつけるまで十数時間にわたってBを監禁していたSがBとともに呆然と立ち尽くしていた[94]。Sは警察官が現場に踏み込んできたころ、冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁を取ってBに持たせ[注 87]、Bが犯人であるかのように仮装して逃亡を企て「俺は逃げるから、俺を脅しているように(包丁を)持て」などと言っていたが[95]、9時30分ごろになって通報を受けて駆け付けた警察官たちが現場から逃走しようとしたSを取り押さえて現場へ連れ戻し[注 88][166]、Sがナイフを所持していたことから銃刀法違反容疑で現行犯逮捕した[21][161]。一方、Bは警察によって保護された[30]。, 千葉県警捜査一課・葛南署は[2]殺人事件として本事件の捜査を開始し[注 89][168]、1992年3月6日夕方に捜査本部を設置した[2]。その上で捜査本部は長女Bと少年Sを[168]それぞれ参考人として任意同行し、2人から前夜からの行動などについて[2]詳しく事情を聴取した[169][170][171][172]。警察が(結果的には被害者と判明した)Bに対しても嫌疑を向け、重要参考人として取り調べた理由は「事件当時、Bは少なくとも2度(妹Eの帰宅時・両親の部下の下へ預金通帳を取りに来た際)に外部へ助けを求める機会があったにも拘わらず助けを求めなかった点」に関する理由が判明せず、その点を疑問視していたためだった[注 73][173]。, この時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていた被疑者Sは[21]取り調べに対し当初、事件への関与を否定して「先月にBと知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「Bとは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をした一方で、被害者のBはショックのためか取り調べに対しても何も話すことができなかった[107]。千葉県警捜査本部は当初、Sの虚偽の供述を真に受けて「S・B両名を殺人容疑で取り調べている」と発表したが[107][1]、その後も丹念に真偽を調べた末にそれらを「Sの虚言」と突き止めた[167][110][37]。同日深夜、Sは一転して犯行を認め[2]、具体的な動機に関して「交際していた女性のことで暴力団組員から脅されており、200万円ぐらいの金が欲しくてやった。806号室に盗みに入ったところCに見つかったので絞殺し、帰宅した家人を次々と刺殺してBを監禁していた」と供述した[174]。そのため、捜査本部は銃刀法違反容疑(前述の現行犯逮捕容疑)についていったん釈放の手続きを取った上で[21][161]、強盗殺人容疑で被疑者Sを逮捕した[2][94][175][93][167][102][116]。, その後、Sは現場マンションで犯行を決行した理由に関して「マンションの近くまで行ったことがあり『この家ならやりやすい』と思った」と供述したため、捜査本部は本事件を「Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした上で実行した計画的な犯行」と推測してSを追及した[注 90][76]。1992年3月7日9時30分ごろから現場検証が行われた結果、現場から血液の付着した凶器の包丁が発見され、捜査本部は包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなど裏付け捜査を行った[174][176]ほか、事件当時Sが住んでいたマンションを家宅捜索して書類など数点を押収した[77][177]。, 捜査本部は1992年3月8日に被疑者Sを千葉地方検察庁へ送検し[77][177][178]、1992年3月9日・10日両日に千葉大学医学部で殺害された被害者4人の遺体を司法解剖した[2]。その結果、絞殺された祖母Cを除く被害者3人(刺殺されたA・D・E)の死因は「胸を刺されたことによる失血死」[179][107]、Cの死因は「首を絞められたことによる窒息死」と確認された[21]。, 1992年3月12日、徳願寺(市川市本行徳)で殺害された被害者4人の葬儀が営まれ、被害者Bが喪主を務めた[163][155]。葬儀の最後に喪主のBに代わって親類代表としてAのいとこが[155][108]本事件に関して「平和な家庭を一夜にして奈落の底に突き落とした信じがたい出来事。悪魔の所業だ。このような犯罪が二度と起こらないよう、犯罪防止に努めてほしい」[155]「学識者・マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶した[108]。『中日新聞』1992年3月15日朝刊は後述の問題に言及して「その言葉は千葉県警・マスコミに厳しい課題を課した」と報道した[108]。, 千葉県警は前述のように事件当初は加害者Sのみならず、結果的に被害者と判明した少女Bに関しても嫌疑を向け[180]、S・Bの両者を[2]重要参考人として取り調べていた[180]。また県警はマスメディアに対し、事件判明直後(1992年3月6日)の発表の際には少年Sが銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていた事実を発表しなかった一方[注 91]、「室内には長女Bのほか、自称19歳の『Bの男友達』がいた。2人から参考人として事情聴取している」と発表した[注 92][109]。結果的に3月6日付新聞夕刊の一部・テレビニュースでは「長女・男友達から事情聴取」という報道が流れ、最終的には被害者と判明したBについて「『犯行に関与しているかもしれない』という警察・記者側の予断に基づいた、読者に誤解を与えかねない記事」による報道がなされ[109]、事件解決後に新聞各紙・関係者から問題提起がなされた[108][107][109]。, 新聞各紙夕刊の見出しは以下表の通りで、記事内容の概要はいずれも「市川市内のマンションで家族4人が血まみれの状態で倒れて死亡していた。県警葛南署は4人の遺体に刺し傷があったために殺人事件として捜査を開始した上で、現場にいた高校1年生の長女(B)と『長女の友人の若い男性』(=加害者少年S)の2人から事情聴取している」というものだった[109]。, 同日17時には千葉県警が2回目の記者会見を行ったが、県警はこの時にも同様に「B・Sの2人から事情聴取している」と発表したほか、「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」と説明し、これも現場の記者たちの予断に追い打ちをかけた[注 93][109]。夕刊発行後の21時30分になって[109]同日3回目となる記者会見が開かれ[注 94][167]、千葉県警は報道陣に「本事件はSの単独犯行であり、Bは全くの被害者である」という事実を発表したが[109][107]、『朝日新聞』では地域版によって修正作業が追い付かず、上の表で示したように全国社会面と千葉県版地域面で整合性を欠く記事が掲載された[109]。, このほか『朝日新聞』の報道検証記事では「一部スポーツ新聞がBが養女である点(事件の主旨とは特に関係ない)に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報道したほか、事件3日後(1992年3月9日)の朝にTBSテレビで放送されたワイドショー番組『モーニングEYE』ではBの同級生へのインタビューの際にリポーターとその質問に答える同級生がBの実名を口にし、その問答がそのまま放送された」ことも指摘された[注 95][186]。, 事件解決後、千葉県警刑事部長は3月6日夜に「Bが最大の被害者だった」とコメントしたほか、Bが当時通っていた県立高校の担任教諭は事件後に「昼間に千葉県警が『長女B・少年Sの両者から事情聴取している』という発表があったにせよ、マスコミの取材はBを犯人扱いしていた」と批判した[108]。, 一連の報道を振り返り、『朝日新聞』は1992年3月10日朝刊千葉県版に掲載された報道検証記事にて「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて最大の被害者は1人残された長女(B)だったかもしれない」と締めくくったほか[109]、『読売新聞』発言投書欄「気流」には「第一報夕刊では『養女と男友達から事情聴取』と書いてあったため、読者は『少女が家族とうまくいかなかったために男友達とともに一家を殺害した』と想像してしまったのではないだろうか?翌日朝刊で『“男友達”とされていた人物は一家と面識がなく、その男(S)による単独犯だ』と報道されたことから、自分は『養女』という言葉から被害者だった少女Bを犯人だと想像したことを恥ずかしく思った。差別を受けやすい養子・養女には配慮が必要だと思う。マスメディアには『報道によって人権を侵害すること』がないよう最大限の配慮をしてほしい」という読者からの発言が掲載された[187]。, 被疑者Sは逮捕直後、「少年犯罪ならどんな犯罪でも少年法により処罰は軽くなる」と考えていたため、自分が死刑になる可能性は考えておらず「これでも俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった[188]。その考えの背景には当時、S自身が少年犯罪への刑罰についてあまり知識を有していなかったことに加え[注 96][190]、「死刑になる者は過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいだ[注 97]。前科のない自分に死刑は縁遠い」という考えや、1989年(昭和64年 / 平成元年)に発生・判明した女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年たちに死刑・無期懲役といった厳罰が課されていなかった事情もあった[注 98][191]。同事件の加害者少年たちと自身の犯行を比較して「自分の犯行はコンクリート事件ほど長期間ではなく、(事件前に)凶器を準備していない」とも考え[注 99][191]、逮捕後には自身の出所後の生活設計のため、面会に訪れた母親Yに頼んで高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書類を差し入れさせていた[193]。, 千葉地検は送検後の1992年3月25日、勾留期限満期(1992年3月27日)を前に精神鑑定のため被疑者Sを1992年3月26日から鑑定留置することを千葉地方裁判所に申請した[注 100][194][196][197]。この間に筑波大学教授(当時)・小田晋が半年間にわたり精神鑑定を行い[注 101][199][200][201]、千葉地検は鑑定結果を踏まえて「Sはカッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」[注 102]と結論を出し[8][202]、1992年10月1日に強盗殺人・傷害など5つの容疑で被疑者Sを「刑事処分相当」の意見書付きで千葉家庭裁判所に送致した[8][203][204]。その後、千葉家裁(宮平隆介裁判官)は4回にわたる少年審判を経て1992年10月27日に被疑者Sを千葉地検に逆送致した[注 103][8]。, 千葉地検は1992年11月5日に被疑者Sを強盗殺人・傷害など5つの各罪状で千葉地裁へ起訴した[8][202][206][207][13][208]。また、1991年10月19日に東京都江戸川区内で起こした別の傷害事件(前述)に関しても同日付で被疑者Sを起訴したほか[13]、公判開始後の翌1993年(平成5年)2月17日までに「一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)」に関して傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷の計4つの罪状で被告人Sを千葉地裁へ追起訴した[209][210]。起訴内容は以下の通り。, 刑事裁判で被告人Sは強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷と7つの罪に問われ「1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5か月間に計14の犯罪を繰り返した」と認定された[211]。, 事実認定に関しては主に被害者への殺意の有無・程度や強盗の犯意が争点となり、検察官側は「被害者4人全員に確定的殺意があり、全員に対し強盗殺人罪が成立する」と主張した一方、被告人Sは被害者4人のうち女性C(被害者少女Bの祖母)以外の3人については強盗殺人罪の成立を否認した[212]。, 各罪状における量刑選択の内訳は以上の通りであったが、刑法第51条(併合罪)の「死刑を執行すべきときは没収を除き他の刑を執行しない」という規定により、実際に適用された刑は「犯情の最も重い妹Eに対する殺人罪への死刑」と「押収された折り畳みナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)の没収」のみで、それ以外の刑は科されなかった[214]。, また犯行当時の被告人Sの責任能力についても争点となり、検察官は小田晋(起訴前)・福島章(公判中)[217]による2度の精神鑑定結果を踏まえ「2度の鑑定でも精神病の兆候は認められず、自己の行為の是非・善悪を弁別する能力に障害はなかった。被告人Sには完全な責任能力がある」と主張した一方、弁護人は福島による精神鑑定の結果に基づき「被告人Sは爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した[218]。しかし千葉地裁は「2度の精神鑑定から『心神耗弱だった』と断言することは困難。『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった」として「責任能力は問題なくあった」と結論付けた[198][219]。千葉地裁は事実認定に関しても被害者Eに対する罪状(強盗殺人罪ではなく殺人罪を適用)および被害者Dに対する殺意の程度(未必的殺意)を除き、大筋で検察官の主張を採用し[213]、死刑を適用した[95]。, 1992年12月25日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で一連の事件の初公判が開かれた[12][212][220][221][222]。前述のようにこの時点では余罪の追起訴が未完了だったため、検察側はこの日の冒頭陳述は見送り、次回公判(1993年3月3日)までに追起訴した上で改めて冒頭陳述・追起訴状の罪状認否を行うことになった[12][212]。, 罪状認否で被告人Sは[注 116]、被害者B宅を知るきっかけとなった強姦事件などについて全面的に起訴事実を認めた一方で[12][212][220]、殺意などに関しては上記表のように争った[12]。弁護人も被告人Sと同様に「外形的な事実関係」は認めたが、犯意・目的などの点に関する起訴事実を一部否認し[212]、公判後の記者会見では「被告人Sが千葉地検に逆送致される際、千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話した上で、被告人Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した[220]。, 事件から1年を前にした1993年3月3日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第2回公判が開かれ[124][165][223]、被告人Sは同年1月に追起訴された計4つの余罪(傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷など)に関する罪状認否でそれらの起訴事実をほぼ認めた[124]。その後行われた冒頭陳述で検察側は「被告人Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害して現金約34万円・残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張し[124][165][223]、事件の引き金となった暴力団員とのトラブルなど様々な新事実を明らかにした[165]。, この時点では弁護人側は「検察側による精神鑑定の結果には疑問があるが、被告人Sの責任能力は争わず、再度の精神鑑定は求めない」という考えを示した上で[124][223]「今後は被害者に対する反省の態度など『情状面での立証』に全力を挙げたい」と表明していた[124][165]。そのため千葉地裁は当初、次回公判(第3回公判・1993年5月19日)で証拠調べ・被告人質問を、第4回公判(1993年5月26日)で弁護人側の情状立証公判を行い、進めた上で1993年6月中に結審[注 117]することを予定していた[124]。しかし、次回公判までにそれまでと方針を一転させ、「1993年2月に追起訴された傷害・恐喝など別事件に関してはいずれも常人の理解を超えている」と主張し[224]、千葉地検が起訴前に小田へ依頼して半年間実施した精神鑑定の結果に対し「精神的な面が主な観点であり、犯罪心理面からの鑑定が必要である」と異議を唱えた[200]。第3回公判で弁護人がその方針を改めて表明したのに対し、千葉地検は「起訴前に半年間にわたって詳細な精神鑑定を実施しており再鑑定の必要性はない」と反対意見を述べたが、弁護人側の請求を受けた千葉地裁はいったん休廷して3人の裁判官による合議を行った[217]。その結果、神作裁判長は弁護人からの請求を認めて上智大学心理学教授(当時)・福島章に委嘱し、約半年間にわたり再度の精神鑑定を実施することを決めた[217]。そのため、結審間近の公判中に別の角度から再度の精神鑑定が行われる異例の展開となったほか[217]、1993年6月21日に予定されていた論告求刑公判期日も取り消されたため、公判の長期化は必至となった[200]。, 第3回公判では被告人質問も行われ[200]、被告人SはC・E両被害者に対する殺意をそれぞれ認める供述をした一方[224]、A・D両被害者への殺意に関しては「その時は殺すつもりはなかった。背中を刺して死ぬとは思わなかった」と否認したが、「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対し「短絡的でした」と反省の言葉も述べた[200]。弁護人は同日に情状証拠として「被告人Sが被害者遺族の関係者宛てに書いた謝罪の手紙」「A一家とは別の事件被害者に対して支払った50万円近い被害弁償を証明する領収書」などを証拠申請した[200]。, 弁護人側の申請を受けて1993年5月 - 11月まで約半年間にわたり、福島による2度目の精神鑑定が行われ[注 118]、1993年11月20日までに福島は「被告人Sの母親Yが妊娠中に流産予防のため黄体ホルモンを約2か月間服用したが、出生したSはその『胎児に対する男性化作用』により攻撃的な性格になり、突然感情を爆発させる『間欠性爆発性精神病質』で『周期性気分変調』と診断される。軽度の脳器質障害も見られ『興奮状態になる精神的な不安定さ』を有しているが、こうした心理・精神状態は中高年(30歳代)で矯正可能である」とする新たな鑑定結果を千葉地裁に提出した[注 119][201]。福島も小田鑑定と同様に「被告人Sは精神疾患ではなく刑事責任は問える」と評価したが、一方で「被告人Sは心身成熟過程にあり精神的に不安定な性格異常である。しかし19歳は心身の成熟過程にあり、今後人格の改善の可能性がある」という見解を示した[199]。一方で千葉地検は精神鑑定中の1993年8月(事件から1年5か月)に「被害者Bに対する期日外尋問」を行ったが、Bは尋問に対し「他の人が手に包丁を持ったまま振り向いたりすると『刺されるんじゃないか』と思って恐怖を感じる。夜はほとんど1人では出掛けなくなった」と供述し[注 120]、量刑などに関しても被告人Sに対し極めて厳しい意見を述べた[95]。, 1993年11月22日に第4回公判が開かれ[199][225][226]、福島による再度の精神鑑定結果に加え、検察官が提出した被害者遺族の尋問調書などが証拠として取り調べられた[225]。同公判後、弁護人は記者会見で「被告人Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、尿酸値が高いという体質的要素から『自分の感情をコントロールする能力』・『刺激に寄って我を忘れやすくなる性格』が結びついている。これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年齢を重ねるにつれて改善されるものであることを考慮して被告人Sの情状酌量をすべきである」と述べた[226]。また同日には次回第5回(1994年1月31日)以降の公判予定も改めて指定され、千葉地裁は第6回公判(1994年2月23日)で論告求刑・1994年3月に最終弁論を行って結審し、1994年4月に判決公判を開くことを決めた[199]。, 1994年(平成6年)1月31日に開かれた第5回公判で証人尋問が行われ、弁護人側の情状証人として出廷した被告人Sの母親Yは前回公判で弁護人側が提出した精神鑑定の結果に関して「『妊娠中に常用していた黄体ホルモンの影響で息子Sの性格が攻撃的なものになった』と聞いて驚いた。家庭の事情による度重なる転校で学校でのいじめもあったようだ」と証言した[227]。同日、被告人Sは被告人質問で「犯行当時は自分の行動が理解できなかった。今は(当時の収監先)千葉刑務所拘置区内で聖書を読むなどして心を落ち着かせている」と述べた[227]。一方で次回公判(1994年2月23日・第6回公判)では当初予定していた論告求刑ではなくそれぞれ最後の被告人質問・証拠調べを行った上で、1994年3月14日に改めて検察側の論告求刑を行うこととなった[227]。, 1994年3月14日に第7回公判が開かれ、千葉地裁は論告求刑公判の予定を再び変更して被告人質問を行ったが、被告人Sは「犯行に至った経緯・心境」「取り調べ状況」などについて質問を受けて「事件当初は空き巣目的で計画的な強盗ではなかった」などと強調した[228]。同日をもって証拠調べは終了し、次回公判(第8回公判・1994年4月4日)で検察側の論告求刑を行うこととなった[注 121][228]。, 千葉地検は論告求刑を前に上級庁である東京高等検察庁と慎重に協議を行い[229]、1994年4月4日に千葉地裁(神作良二裁判長)で開かれた論告求刑公判(第8回公判)で[230]被告人Sに死刑を求刑した[231][232][233][234][235][236]。少年犯罪に対する死刑求刑は異例で[237]、当時は1989年1月・名古屋アベック殺人事件の第一審(名古屋地裁)以来だった[230]。同日の論告で検察官は殺害された被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した上で完全責任能力があることを主張し[238]、尋問調書でBが述べた被告人Sへの極刑適用を望む言葉も読み上げた[236][233]。, そして、量刑理由については「一連の犯行は全て被告人Sの単独犯行で、少年犯罪にありがちな『集団を形成し、相互に同調し合って重大事件を引き起こした場合』とは事情が異なる」[237]「永山基準で示された死刑適用基準をすべて満たしていることから明らかなように被告人Sの刑事責任は誠に重大で、情状酌量の余地はない。罪刑均衡・犯罪予防の見地から命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ」と主張した[236]。, 公判後に記者会見した被告人Sの主任弁護人・奥田保弁護士は「生育環境など同情すべき事情や矯正可能性を評価しておらず、最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、死刑は少年法の精神からして厳しすぎる」と述べた[231]。前述のように逮捕直後「少年犯罪なら死刑にはならない」と考えていた被告人Sはこの論告求刑公判で死刑を求刑されたことで「後の死刑判決宣告以上に」大きな衝撃を受けた一方、検察官に対しては嘲笑・逆恨みに近い感情も抱いていた[240]。, 1994年4月27日の第9回公判では当初弁護人の最終弁論が行われる予定だったが、弁護人側は同年4月15日までに「事件当時少年の被告人に対して行われた死刑求刑に対し『死刑制度の是非』という大局的な見地で判断を仰ぎたい」との考えから、同公判で死刑制度の是非そのものについて問いかける内容の弁護人側立証を行うことを決めた[241]。千葉地裁もその方針を認めたため、予定されていた最終弁論は延期され[241]、追加の被告人質問・証拠調べが行われた[242][243]。弁護人は起訴前に精神鑑定を行った小田が鑑定前に事件について言及した週刊誌記事[注 122]や被告人Sの母親Yから提出された情状酌量を求める上申書2通などに加え、超党派国会議員による『死刑廃止推進議員連盟』の発足を報じる新聞記事[注 123]などを証拠として提出したほか[243]、被告人Sは被告人質問で死刑求刑に関して「自分の犯してしまった罪の重さを痛切に感じている」と述べた[242]。, 1994年6月1日に開かれた第10回公判で改めて弁護人の最終弁論が行われ、同公判をもって第一審公判が結審した[244]。弁護人は検察官の「被害者4人への確定的殺意・C以外3人への強盗殺人罪の成立」をいずれも否認し、「犯行当時、被告人Sは心神耗弱状態だった」と主張して死刑回避・無期懲役刑の適用を求めた[244][215]。情状面に関して以下のように主張した。, 最後に被告人Sは、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われて「大変な事件を起こして申し訳ない。これから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたい」と述べた[244]。しかし『千葉日報』は公判中の被告人Sの態度に関して「心情を吐露することなく、被告人質問における供述も相手任せだったり、自分の言葉で深い心情を語らなかったりと、自らの生死を決する裁判の進行もまるで他人事と受け止めているかのような姿勢に終始していた」と述べている[246]。, 1994年8月8日に判決公判が開かれ[218]、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は検察側の求刑通り被告人Sに死刑判決を言い渡した[18][219][246][96][247][248][249][250][251][252][253]。犯行当時少年への死刑判決は永山則夫連続射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)における1990年の最高裁第三小法廷・第二次上告審判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持して被告人・永山則夫の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の名古屋地裁・名古屋アベック殺人事件判決(控訴審で破棄・無期懲役が確定)以来であった[219][254][255][256]。, 量刑理由で千葉地裁は「国際的にみるとそれぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在は死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」と述べたが[注 124][249]、永山事件における1983年の最高裁判所判例「永山基準」を引用した上で[250]、以下のような理由から「深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など被告人Sに有利な情状を考慮しても罪刑均衡・一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」と結論付けた[95]。, 本判決に関して犯罪事件研究倶楽部 (2011) は「死刑廃止を求める議論が活発になっていた当時、世論の注目の中で犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡された本事件判決はその後の刑事裁判にも影響を与えるものだった」と[257]、永瀬 (2004) は「被告人Sは死刑判決を受けたことで初めて一家4人殺害の罪の重さを受け止め『犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖』を知ることとなった」と述べている[258]。また中央大学教授(当時)・渥美東洋は被害者の立場から本判決を「自己目的の完遂に他人の犠牲をいとわぬ犯行で19歳への死刑適用は合法であり当然だ。家族すべてを失いただ一人生き残った長女Bが『あんな男は生きていてほしくない』と語ったように、被告人Sを死刑にしなければ被害者遺族はさらに苦しむことになる」と評価した一方、アムネスティ・インターナショナル日本支部・岩井信は「死刑廃止論が高まっている現状においてあえて少年に死刑を科するならば裁判所はその理由を積極的に示すべきだ」と述べ、死刑判決に否定的な見解を示したほか、弁護士・安田好弘[注 125]も「被害者感情から死刑判決を出すことは簡単だが、そこから社会が学ぶものは何もない。10回の公判で大人社会が少年を絞首刑にする結果となったが、法廷で少年が心を開いたとは思えない。犯行へ至る心のひだを解明すべきだ」と指摘した[246]。, 千葉地検次席検事・三谷紘は「一部の点(次女Eに対する単純殺人罪認定など)で主張と異なる事実認定がされたが、こちら側の主張をほぼ認めた判決であり、量刑も求刑通りで妥当だ」と述べた一方[219]、被告人Sの弁護団(主任弁護人・奥田保)は閉廷後の記者会見にて「犯行時に被告人Sが未成熟だったことなどを否定し、世界的な死刑廃止の潮流に逆行して被害の重大性のみに目を奪われた量刑であり極めて遺憾だ」と本判決を批判した[246]。その上で被告人S・弁護人は判決を不服として、閉廷後の同日午後に東京高等裁判所へ控訴した[219][259][260][261]。, 東京高等裁判所にて開かれた控訴審で弁護人側は以下のように「被告人Sの殺意は『未必の故意』もしくは存在しなかったにも拘らず、原判決は『確定的な故意がある』と事実誤認をしている」と主張した[262][263]。, また第一審における「爆発的精神病質者」という主張に関してはアメリカ合衆国の心理学者[263]・ライニッシュの論文を添えて補強した上で[265]改めて完全責任能力を否定する主張を展開したほか[263]、「世界的な死刑廃止運動」「18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨」[注 126]を強調した上で「死刑判決を破棄して無期懲役刑を適用するのが相当である」とする旨を主張した[267][262]。, しかし1996年(平成8年)7月2日に開かれた控訴審判決公判で東京高裁刑事第2部(神田忠治裁判長)[注 127]は第一審・死刑判決を支持して被告人S・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した[19]。東京高裁は「犯行当時少年で、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」と被告人Sに対して有利な情状も認定したが[269]、以下のような様々な情状の認定により死刑を回避するには至らず「犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣・残虐であり生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」と結論づけた[270]。, 被告人Sの弁護人側は判決を不服として同日付で最高裁判所へ上告した[269][266][262][267][263]。, 最高裁判所第二小法廷(亀山継夫裁判長)は事件発生から丸9年となる2001年(平成13年)3月5日までに被告人Sの上告審口頭弁論公判開廷期日を「2001年4月13日」に指定して関係者に通知した[272][273][274][275]。, 2001年4月13日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護人は死刑回避(原判決破棄)を、検察官は上告棄却を求めた[276][277][278][279][280][281]。控訴審で死刑判決を言い渡された犯行当時少年の被告人に関する審理が最高裁で行われた事例は永山則夫連続射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件 / 被告人・永山則夫)の第二次上告審以来で[276][279]、弁護人側は精神科医の鑑定結果から「被告人Sは幼児期に父親Zから受けた激しい虐待により心的外傷を受け、犯行時は解離性障害による離人症の状態で別の人格に支配されていた」と主張したほか、情状面などについても「矯正可能性がある少年への量刑は慎重かつ抑制的であるべきだ。被告人Sは犯行を深く反省しているほか、死刑は残虐な刑を禁じた憲法に違反するもので、特に少年への適用は許されない」と主張した[282]。一方、検察官は「弁護人の主張は量刑不当・事実誤認で上告理由として認められない。なんら落ち度のない被害者ら自分より弱い者に対する冷酷・残虐な犯行は許されず、被害者遺族も極刑を望んでいる」として上告棄却を求めた[283]。, 結審当初は「2001年夏までに判決が言い渡される見通しだ」と報道されていたが[276][279][280]、「最高裁で弁論が開かれた段階」で新たに弁護人に就任した弁護士・安田好弘が他の弁護人2人とともに「事実認定を全面的に洗い直す必要がある」として最高裁第二小法廷に弁論再開の申し立てをした[284]。しかし申し立ては認められず、安田は上告審判決を前に被告人Sと面会した際に「とにかく生き延びよう。生きるために戦い続けよう」と約束した[284]。2001年11月13日までに最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は上告審判決公判開廷期日を「2001年12月3日」に指定して関係者に通知した[285][286][287]。『東京新聞』(中日新聞東京本社)の記者から取材を受けた関係者は上告審判決直前の被告人Sについて「死刑確定を覚悟してはいたが、判決までの数日間は落ち着かない様子だった」と述べている[97]。, 2001年12月3日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審判決公判が開かれ、同小法廷は一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡したため[288]、被告人S(当時28歳)の死刑が確定することとなった[289][290][291][97][292][293][211][294][295][296][297][298][299][300][301]。同小法廷は判決理由で「被告人Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯しており、その動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族Bの被害感情も非常に厳しい。4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で被告人Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた[302]。犯行当時少年の被告人に言い渡された死刑判決が確定する事例は1990年に最高裁で死刑が確定した永山以来で、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で[289][291][97][293][211][295][298][299]、平成に入って発生した少年犯罪では初めてであった[10]。, 被告人S・弁護人は上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)に判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ては同小法廷が2001年12月21日までに出した決定で棄却されたため、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した[注 3][20][304][305][306][307][308]。少年犯罪に関しては死刑適用について判断が分かれる傾向が強いとされるが、本事件は第一審・控訴審・上告審と一度も死刑が回避されることなく確定する結果となった[注 128][309][310]。これにより死刑囚Sは戦後日本で37人目(永山への最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。, 被告人Sは最高裁上告中の1997年から『東京新聞』(中日新聞東京本社)社会部記者・瀬口晴義と文通しており[50][51]、瀬口は死刑執行後に生前の被告人Sの人柄について「手紙・面会では『獄中生活で体重が120 kgを超えた』と嘆く一方で大腸がんを患った私を本気で気遣うなど、礼儀正しい性格で、その印象と残虐非道な犯行の差が最後まで埋まらなかった。Sが口にした懺悔の言葉が本心からなのかどうは今でもわからないが、自分の命をもってしても償いきれない罪の大きさを自覚していたとは思う」と振り返った[27]。, Sと瀬口が文通を開始したころには神戸連続児童殺傷事件を受けて少年法改正論議が沸騰していたが、被告人Sは瀬口宛の手記で「大人と同じように刑罰を下したところでいじめ・恐喝・リンチ殺人などなくならないどころか『これまで以上に陰湿なやり方』が増えるだけだ。仮に少年法を改正しても凶悪少年犯罪が減少することはない」という考えを示したほか、「凶悪な少年犯罪を生む素地は『大多数の負け組の上に、一握りの勝ち組が君臨する社会構造』にある。現代は『金か能力のある者』だけが『正義』と持て囃されて勝ち誇る社会だ。子供でも一部の裕福で恵まれた人間以外は夢も希望も見ることもできない。自分は『己の罪深さを恥じ真に償いを求める』ならば将来を求めてはいけないと思う」と述べていた[50][51]。, また上告審判決期日(2001年12月3日)までに中日新聞社へ手記を寄せ、同判決を報じた『中日新聞』・『東京新聞』両紙の2001年12月4日朝刊記事で以下のような内容が掲載された[291][97][311][312]。この手記は上告審判決から9年後(2010年11月28日)に「石巻3人殺傷事件の裁判員裁判で初めて犯行当時少年の被告人(当時18歳)に死刑判決が言い渡された」と言及した『中日新聞』・『東京新聞』両紙朝刊コラムにてそれぞれ引用された[313][314]。, また死刑囚Sは被害者4人の遺骨が納骨された熊本県内の寺の住職[注 129]とも1993年(事件翌年 / 千葉刑務所拘留中)から交流を続けており、死刑確定後の2006年には住職宛の手紙に2,500字の写経を書いて送っていた[27]。住職は中日新聞社の取材に対し「面会した当初は犠牲者の無念を思ってアクリル板越しに被告人Sへ怒りをぶつけたくなったこともあったが、第一審で死刑判決が言い渡されて以降は『生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない』と思うようになった。その後もSと面会するたびに被害者の供養を頼まれ、『Sは罪の大きさに苦しんでいる』と思ったが、被害者遺族の悲嘆を目の当たりにすれば死刑執行は因果応報だとも思う」と述べている[注 130][27]。, なお「死刑廃止の会」(2006年当時)による[注 131]「1993年3月26日以降の死刑囚についての調査(2006年9月15日付)」によれば[316]、東京拘置所に収監されていた死刑囚Sは[317]2005年8月1日 - 2006年9月15日までの間に千葉地裁へ再審請求を起こしていたことが判明した[注 132][326]。第一次再審請求では死刑確定後に上告審で弁護人を務めていた弁護士が「犯行当時、死刑囚Sは心神喪失状態だった」と主張し[注 133]、弁護団はMRI検査のやり直しなども請求したが、死刑執行までに2度にわたり再審請求棄却が確定していた[284]。また弁護人・安田好弘[注 134]は最高裁で弁論再開を申し立てた他の弁護人2人とともに[284]「事実関係の面に関しても未解明の部分がある」として、事実面における係争を含めて想定した上で次期再審請求のための準備を進め、死刑執行直前に再審請求書を作成していた(主張要旨は以下の通り)[328]。, またSは死刑執行まで作家・辺見庸と数十回にわたり面会を続けていたほか[329]、弁護士・一場順子[注 135]と約2か月おきに面会していたが、一場に対し「事件の情景がフラッシュバックし、殺害された被害者4人が自分に『お前を許せない』と言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあった[注 136][330][331]。, 法務省(法務大臣:上川陽子 / 2017年12月15日付署名)の死刑執行命令により[23]、2017年(平成29年)12月19日に収監先・東京拘置所で本事件加害者S(44歳没)ら死刑囚2人[注 137]の死刑が執行された[23][7][332][333][334][335][312][24][25]。事件発生から四半世紀(25年)[336]・死刑確定から16年後の死刑執行で[337]、犯行当時少年だった死刑囚(少年死刑囚)への死刑執行は連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)の死刑囚・永山則夫の死刑が1997年に執行されて以来20年ぶりだが[338][339][340][341]、法務省が死刑執行について事案の概要などを公表するようになった2007年12月[注 138]以降では初の事例だった[23]。, 死刑執行当時、死刑囚Sは第三次再審請求が棄却されたため即時抗告中で[284]、Sは処刑直前に弁護人・一場順子宛の遺言として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた[注 139][27]。当時は「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」は避けられる傾向が強く、近年では1999年12月17日[注 140]以来途絶えていたが、同年7月にスナックママ連続殺人事件の死刑囚(当時・大阪拘置所在監)に対し金田勝年法務大臣の命令で死刑が執行されて以来、2回連続で再審請求中の死刑囚が執行されたケースとなった[注 141][341]。同日に上川は記者会見で死刑執行を発表した際「再審請求中だからといって(死刑を)執行しないという考え方はとっていない」と述べた上で、犯行時少年に対する死刑執行に関しては「個々の死刑執行の判断に関わるため、個人的な考え方については発言を控える」と述べた[23][334]。, 同日、死刑囚Sの母親Yは出先の病院で東京拘置所から死刑執行の連絡を受け、同拘置所に向かったが、いったんは東京拘置所職員から「『遺体を引き取る』と意思表示する必要がある」として遺体との対面を拒否されたため、最寄り駅(東武スカイツリーライン・小菅駅)ホーム上で待機していた[328]。その後、弁護人・安田[注 142]と合流したYは遺体を引き取るか否かに関係なく息子Sの遺体との対面を許可されたが、納棺されたSの遺体に触れることはできず、遺体の顔を覗くことしかできなかった[328]。安田は死刑囚Sの執行前は「弁護人とともに再審請求中の死刑囚に対する死刑執行はまずあり得ない」と考えていたが、この執行を「法務大臣から我々死刑囚の弁護人に対する『弁護人がいようが自力だろうが今後は再審請求中でも死刑執行する』という意思表示なのだろう」と受け止めたほか、「おそらく『第1次再審請求の結論が出るまでは死刑執行を見送るが、それ以降は見送る理由にはしない』ということだろう」[342]「今回の死刑執行は国家が自らの権力を見せつけるような『これまでの死刑執行とはまったく様相の異なるもの』だ。いかなる躊躇・抵抗をも排除して有無を言わさずに死刑を執行する、すなわち国家からの『死刑執行に対する強固かつ積極的な意思表示』だ。今後行われるだろうオウム真理教事件の麻原彰晃ら死刑囚13人への死刑執行を見据えた『地ならし』でもあるだろう」とも推測していた[注 143][345]。, また安田は2018年1月25日に開かれた死刑執行抗議集会にて[29]「死刑執行から数日後に別の死刑囚・及び別の収容者1人と東京拘置所で接見した際『死刑囚Sは死刑執行よりかなり前から刑場へ連行される際も目立たない一番端の独房に収容されていた。死刑執行当日の朝に独房から連れ出された[注 144]際には特に暴れたりせず、ごく普通の形で独房を出ていった』と伝えられた」と明かした[328]。, 事件当時少年でかつ再審請求中だった死刑囚Sの死刑執行を受け、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)は同日付で「まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への死刑執行は許されてはならない。また、再審請求中の死刑執行は決して許されてはならない」などと抗議声明を発表したほか[346]、日本弁護士連合会(日弁連)も同日付で中本和洋会長名義の「死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明」を発表した[注 145][348]。また千葉県弁護士会(会長:及川智志)[注 146][349]および駐日欧州連合 (EU) 代表部もそれぞれ死刑執行への抗議声明を出した[注 147][341]を発表した[341]。, 一方で「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」(VSフォーラム)は同日付で共同代表の杉本吉史・山田廣両弁護士名義で「被害者遺族からすれば歓迎すべき死刑執行であり強く支持する。死刑制度は最高裁判例で合憲とされている制度で、法律に従って死刑を執行するのは当然のことだ。再審請求中および犯行当時少年であっても死刑執行を回避すべきではない」とする声明を発表したほか[350]、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子は時事通信社の取材に対し「少年であっても罪に合った罰を受けることが犯罪抑止力につながる」と話した[351]。また常磐大学元学長・諸沢英道(被害者学)は「『少年の更生可能性』という非科学的・曖昧な基準で死刑執行を回避するのは相当ではなく、事件の重大性・遺族らの被害者感情・社会影響を考えると今回の死刑執行は当然だ。死刑執行の先送りを目的とした再審請求も多いため、再審請求中でも死刑執行対象から除外すべきではないが、法務省は死刑執行において『冤罪の可能性がないこと』を具体的に説明する必要はあるだろう」という見解を示した[352][353]。, 『産経新聞』(産業経済新聞社)は2017年12月20日付コラムで「死刑囚Sの判決確定は16年前でむしろ遅すぎた。更生の機会に関しては刑事裁判の場で争われるものであり、法相にはその確定判決の是非を判断する職責はない。法相の個人的信条で死刑執行の有無が決まるなら『法の下の平等』に著しく抵触するため、死刑が確定した以上は法相は粛々と死刑執行を命じるべきだ。今回の死刑執行を契機に『国民が少年法改正の問題を考える』論議を提起することが望ましい」と主張した[337][354]。, 事件直後に発売された週刊誌『週刊新潮』・写真週刊誌『FOCUS』(いずれも新潮社から発売)はそれぞれ被疑者Sを実名報道したほか[22][355][356]、上告中の2000年(平成12年)9月に出版された永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社 / 当時は本名の「祝康成」名義)および死刑確定後の2004年(平成16年)8月に出版された『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫 / 『19歳の結末』を加筆・改題の上で再出版)でもそれぞれ被告人・死刑囚Sの実名が記載されている[357]。, 事件当時の実名報道に関して当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は『産経新聞』・『朝日新聞』などの取材に対し以下のように回答したほか、千葉地裁で死刑判決が言い渡された際に『千葉日報』記者の取材に対し「無辜の人を冷酷に殺していく犯罪に『少年だから』という理由で保護すべき要素は微塵もない」と述べている[246]。, これらの実名報道に対しては東京弁護士会(小堀樹会長)が1992年3月25日付で「少年法の趣旨に反し人権を損なう行為だ」として「『良識と節度を持った少年報道』を求める要望書」を新潮社に郵送し[361]「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[356]。, 一方、過去に女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年4人を実名報道した『週刊文春』は本事件時は実名報道を見送り匿名報道としたが[注 148]、編集長・花田紀凱はその理由について「事件を受け編集部から『今回も実名報道すべきではないか』という意見が上がったが、以前の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は以前の報道・それによって起こった論議から既になされたため、最終的に自分の判断で見送った。しかし、今回も少年法に対して問題があるという姿勢は崩していない」とコメントした[355][356]。, その一方で新聞各紙は2001年12月の死刑確定時も被告人・死刑囚Sを実名報道せず匿名で報じ[363][364]、新聞・テレビの報道では2017年12月19日の死刑執行まで死刑囚Sの実名報道はなされていなかった。しかしその後は「少年犯罪でも死刑が確定する場合については死刑執行前の判決確定段階で『更生可能性が消えた』として実名報道に切り替える例」が主流になりつつあり[364]、マスメディアは2017年12月の死刑執行を受けて「更生や社会復帰の可能性がなくなった」「国家によって人命が奪われる死刑の対象は明らかにされるべき」「事件の重大性を考慮」などの理由からそれぞれ実名報道に切り替えた。, 1998年(平成10年)10月から作家・永瀬隼介(当時、本名の「祝康成」名義で活動)は本事件についての書籍出版を目的に東京拘置所で被告人S(当時最高裁上告中)と面会・文通を重ね[357]、2001年12月に死刑が確定するまで[注 150]の約3年間にわたり事件の様々な関係者(Sの家族・被害者遺族・Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含めてSの人物像・事件の詳細を調べた。, Sは永瀬宛の手紙で「完全に枯れ切ってしまう前に、潔く終わりにしたいと思います」と述べていたが、永瀬はSの態度について「当初は終始、誠実な姿勢は変わらなかったが、拘置期間が長引くにつれて感情の起伏が激しくなっていき、1999年12月17日に東京拘置所・福岡拘置所で計2人の死刑囚の死刑が執行された[注 151]直後の1999年12月下旬からは様子が一変して精神的に不安定になった」と述べている[377]。また、被告人Sは幼少期に苛烈な虐待を加え、一家離散の引き金を引いた父親Zに対し「生まれつきの詐欺師」「他人の精神的苦痛など一顧だにしない奴」「一緒に死刑台に吊し上げてやらないと気が済まない」などと激しい憎悪の念を書き記していたほか[378]、女手一つで働きながら自分や弟の生活を支えていた母親Yや[注 152][380]幼少期に自分を溺愛していた祖父Xに対しても同様に憎悪の念を向け[381]、自身を「常識人の範疇を超えて偏った人格を持ち合わせた両親から生まれるべくして生まれた死刑囚」と評していた[382]。, また被告人Sは永瀬宛の手紙で以下のように綴っているが、初めて永瀬宛の手紙を東京拘置所から送った際にはその手紙に香水を付けていたため、永瀬は「『独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯』とはどこか歪んでいる」と表現した[383]。, 2000年(平成12年)春に面会した永瀬が被告人Sに対し、手紙の内容に言及した上で「あなたにとって『本当の意味での反省』とは何か」と尋ねると、Sは「本当に謝るべき人々(被害者4人)を殺しておいて、今でも『反省して何にもならない』と思っている。今でもどうやって反省していいのか分からない」と答えた[389]。, 永瀬は過去に広島タクシー運転手連続殺人事件(1996年発生)の死刑囚など殺人犯を取材した経験はあったが、Sについては「口では『切腹して死にたい』「潔く終わりたい」と殊勝に語るが、実際は生へのエネルギーが涸れない底知れぬ生命力の塊だ。過去に取材したどの殺人犯よりもはるかに深い桁外れの闇を抱えていたため、その人物像を理解しようと接近を試みてはさらにその闇の中に巻き込まれていった」と形容している[392]。永瀬はSと面会など交流を重ねるにつれて次第に「このままではすまない。手痛い代償を払わされるに違いない」と考えるようになり[393]、著書出版準備を進めていた2000年初夏には慢性的な精神的ストレスから自律神経失調症を発症し、満員電車で帰宅していたところ気分を悪くして途中駅で下車した直後に意識を喪失し、プラットホームへうつ伏せに転倒したことで顎を強打し骨折・歯が砕けるほどの重傷を負った[注 154][395]。永瀬は当時の心境に関して単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社)のあとがきで「私はSとの面会・本の差し入れ・文通など交流を重ねるうちに、Sに対し『悔恨と反省に満ちた真っ当な心』による懺悔の言葉などを期待していたが、4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前ではどんな悔恨・反省も虚しい。この本を書き終えて虚脱感・徒労感に支配されている」と述べている[396]。, 永瀬は2000年9月にそれまでの取材結果をまとめて新潮社から単行本『19歳の結末』を出版し[注 155][398][399]同書を獄中の被告人Sに差し入れたが、Sはその内容について同月中の永瀬との面会で「虚偽の描写が含まれている」と反論した[注 156][403]。Sがこの記述に憤慨した理由は、同書を読んだ弁護士から「『お前は(事件前に)こんなこともやっていたのに隠していたのか』と責められたため」だったが、永瀬 (2004) は「自分がSに求めていたものは『同書に記されていた被害者や遺族の悲しみ・怒りの感情に触れ、それに対しどんな感想を述べるか』であってこのような些末なことではない。許されるならばあの時、私は『お前が言うべきはそんなことじゃないだろう』とSの胸倉を掴んで揺さぶり諭してやりたかった。愛する娘(D)と4歳の孫(E)を刺し殺された祖母(熊本県在住のBの母方の祖母 / Dの実母)の地獄の日々に思いを馳せることさえできないようでは『救いようのないクズ』だ」と非難している[383]。その後も永瀬はSとの交流を続けたが、翌10月の面会中にはSが被害者Bを愚弄し「彼女は自分のことをすべて知っているのに本当のことを言わないし、あなた(永瀬)の取材にもまともに答えないとんでもない人間だ」などと発言したため[注 157]、永瀬は改めてその態度に失望し「『とんでもないのはお前だろう』と怒鳴りつけたくなるほどの激情に駆られたのをなんとか耐えた。『この男は反省していない』と改めて実感した」と述べている[404]。, 永瀬とSの最後の面会は2001年(平成13年)1月下旬(前年12月以来約2か月ぶりで、Sは「面会できることは世間との接点があって嬉しい。これからもどんどん本を読みたいしあなた(永瀬)とも会いたい。面会できなかった場合を含めて本を差し入れてもらってありがたく思っている」と感謝の言葉を述べ、永瀬から「どんな本が読みたいか?」と質問されると「『永遠の仔』(天童荒太・幻冬舎)を読みたい」と返答した[405]。永瀬は「次回の面会時に『永遠の仔』を差し入れる」と約束し、それ以降も面会を試みたが、結果的にはこれが最後の面会となった[406]。それ以降、上告審口頭弁論が開かれ死刑確定が近くなったことから永瀬は「それまでに可能な限り話を聞こう」と考えたが、しばらくは手紙にも返信がなかったため「Sは精神的に動揺して返信できないのではないか?」と懸念したが、上告審弁論から約8か月後の2001年10月末になって久々に届いたSからの手紙では懸念していた「精神的な動揺」は感じられず「永瀬への挨拶・面会ができないことへの謝罪の文言・永瀬が定期的に差し入れていた『新潮45』(新潮社)に関する言及」が記されていた[注 158][408]。, それから約20日後の2001年11月下旬には被告人Sから永瀬宛に再び手紙が届いたが、それ以降Sから永瀬への手紙は来なかったため、結果的にこれが「被告人Sが生前最後に永瀬宛に出した手紙」になった[409]。, 永瀬隼介(祝康成)の取材に対し、Sの祖父X(1999年当時76歳)は[410]獄中にいた孫Sについて「生きていても苦しい事ばかりで何もいいことはないしもう死にたい。なぜSが今でも生きていられるか不思議だ。自分がそのような事件を起こしたら耐え切れずに自殺する。Sはろくでなしだとわかっていたが、4人も人を殺すなんて思っていなかったから事件当時はかなりショックだった。あいつとはもう関わりたくないし、法に従えばいい」と述べたほか[411]、Sの父親(娘婿)であるZについて「自分はZを初対面の時から『人相が良くないし、真面目に働くような顔ではないから娘Yと結婚させたくない』と思っていたのに、Yは自分の言いつけをちゃんと聞いてくれなかった。もしYが言いつけを聞いてくれていたらSはこの世に生まれていない。いっそSはZ・Yが離婚した時にZにくれてやればよかった」などと述べた[412]。また事件後には店に客が来なくなり、事件後に複数店舗を閉店・売却したが、それでもXの借金は増える一方だった[413]。, しかしその一方で「Sはアパートの家賃、犯行に用いた車の購入費のほか、ギター・オーディオの購入費なども祖父Xから代金を援助してもらっていた」[62][414]「Sは中学校に入学したころから祖父・母親に多額の現金をせびっていた。Xは鰻屋の従業員の前で『また夜遊びか』と笑いながら、Sに1万円札数枚を手渡すこともよくあった」という報道もある[37]。XがそのようにSを甘やかしていた理由について、朝倉喬司は「家業につなぎ留めておくため」と述べている一方[415]、『週刊文春』は「Yが息子Sを独居させた理由は家庭内暴力から自身や次男(Sの弟)の身を守るためだった。Xが400万円以上するクラウンをSに買い与えた背景にも、単なる溺愛ではすまない事情があったのだろう」と述べている[416]。, なお伴侶としてXと苦楽を共にし[417]「Sを最もかわいがっていた」という祖母(Xの妻)は被告人Sが控訴中の1995年に他界したほか[266]、跡継ぎになるはずだったXの長男(Sの叔父)は事件の3年前(1989年)にくも膜下出血で倒れ、44歳で死去している[417]。, Sの母Yは1999年時点で次男(Sの5歳年下の弟 / 当時大学生)とともに息を潜めて暮らしており、外回りの営業の仕事に従事しながら週1回の割合で長男Sのいた東京拘置所を訪れて面会を続け、その度にSの健康を気遣いつつ季節ごとの衣類・嗜好品・書籍などを差し入れていた[418]。永瀬隼介は「(1998年 - 1999年にかけての)『木枯らしの吹く時季』」にYが次男とともに暮らしていた家を取材したが、この時に応対したSの弟は顔・体格ともに兄Sと似てはいたが、永瀬に対し終始丁寧に応対していた[注 159][419]。その後、永瀬は母Yの帰宅を待って取材しようとしたが、Yは嗚咽しながら「あの子も今は反省しているのですからもうそっとしておいてください」と取材を断った[419]。, 『中日新聞』は加害者Sの性格やその形成経緯について、Sの家庭環境などを踏まえながら「Sの『他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像』が形成れた背景には複雑な家庭環境があるのだろう」と報道した[62]。また朝倉喬司は芹沢俊二の著書『少年犯罪論』(1992年・青弓社)に寄稿した本事件の記事で、Sについて「ひと昔前なら確実に職人として成長できただろう境遇に生まれ、一度はその方向に進みかけたが挫折し、それが事件の誘因となった節がある」と考察したほか[420]、Sの生い立ちや鰻屋の同僚[注 160]の証言を踏まえ、Sが200万円を得るために一家4人を殺害した背景について「Sは父親が億単位の借金を作ったことにより両親の離婚を経験し、何度も転居・転校せざるを得なくなった。それが体験の幻影のようにSの心の底にこびりつき、後に暴力団から追い詰められ『強大な他者の幻影』を見たことで自身を見失った。(外部に助けを求められなかった)被害者BもまたSの怯えが伝染するかのように、Sの操り人形のように動いてしまったのだろう」と考察している[421]。, 『河北新報』1992年3月27日付記事はSの母親Yが元夫Zと離婚後も関係を断絶していなかったことにSが反発していた点に関して言及し、「別れたはずの両親がその後も付き合っていたことがさらに少年の心に屈折感を生んだようだ。『祖父の愛情と父親への反発』という点では東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の被告人・宮崎勤を思い起こす。(本事件と宮崎の事件)2つの事件を同列には論じられないが『複雑な家族関係が事件に与えた影響』は大きい」と述べたほか、ノンフィクション作家・佐木隆三は同記事にて「1988年に東京都目黒区で当時中学生の少年が起こした両親・祖母の計3人殺害事件もそうだが、父母の愛情が何らかの要因で欠落すると『バランスを失った祖父母の愛情』で『抑制の効きにくい子』を育てることもあるのではないか」と述べた[414]。, 『週刊新潮』1992年3月19日号の記事などでは以下のような識者意見が掲載されている(肩書はいずれも当時)[422]。, 死刑囚 (女性死刑囚・少年死刑囚) | 死刑執行人 | 死刑刑事訴訟法 | 刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律 | 行刑密行主義 | 永山基準, 確定死刑囚 | 被死刑執行者 | 収監中の死刑囚 | 獄死もしくは恩赦された死刑囚 | 再審で無罪になった死刑囚, 「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。Sをこの手で殺してやりたいし、Sはこの世に生きていてほしくない。Sは許されていいはずがない。優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったEをなぜ殺した。家族を返せ」, 事件当時の現場一帯(市川市行徳地区)の所轄警察署だった。事件後の1995年に浦安警察署(葛南警察署から改称)から現場一帯を管轄する, 『中日新聞』2001年12月31日朝刊では「21日に死刑判決確定」と報道されている, なお、実名・イニシャルを掲載している一部文献で実名の漢字が誤読され読みが「S・M」となっている文献があるが正しくは「S・T」である(, Sの母親YはXの長女として生まれ、短期大学を卒業後の(1967年 / 当時24歳)に, Yは息子Sが歩けるようになった直後からスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ・英会話を習わせた, 祖父Xの援助で購入した高級マンションで、有名企業の社員・医者・実業家など高額所得者が多数在住していた, 「何時間も正座をさせる」「食事を与えない」「徹底した無視」「真冬の夜中に外に放り出す」など, 一方で祖父Xや祖母はSをかなり寵愛していたため、Sは毎週末のように祖父X宅に泊まっていたほか、Xを「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者。自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と心から尊敬していた, エホバの証人は過激なほどの徹底的な純粋性からキリスト教内部でも異端視されていたが、Sは「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。彼(この友人)の家のように『笑顔の絶えない平和な家になる』」と信じていた, 永瀬宛の手紙でSは父Zに聖書を破られたことを「聖書・経典を破られたことは『神に背く裏切り行為』。信者なら誰でも気が狂うほどの大罪だ」と述べた, 母Yは1983年3月に父Zと調停離婚してSとその弟の親権を引き取るとともにイニシャル「S」姓に復氏した, 当時は両親の離婚後に改姓していたことを周囲から好奇の目で見られ、転校先の担任教師が電話連絡網を作るためにクラス全員の前でSから電話番号を聞いた際、Sが「電話はうちにはありません」と答えてクラスメートばかりか担任にまで大笑いされた, その一方で「不良のレッテルを張られると損をする」と考えていたため、地元ではおとなしい真面目な少年を装っており, 不良仲間たちの誘いに乗った理由は「他人に必要とされることが何より心地よかった」ためだった, また、母親Yが家庭崩壊の元凶となった父親Zを「教育のため」と称して自分や弟たちに逢わせるようになったこともSの反抗的な態度を強める要因となったが, 高校受験を控えた中学3年生時には学習塾に通い「野球が強くて大学進学率も悪くない普通高校」を志願していたが, 2年生進級直後に他校生徒への恐喝事件への関与が発覚したため停学処分になったが、自宅待機を命じられたにも拘らず無断外出・外泊を繰り返していたため、母親Yが高校側に退学を申し入れた, 働き始めた動機は将来を真剣に考えた末の決断ではなく「祖父Xの猛烈な働きようを見て『仕事はそんなに面白いものなのか?』と興味を覚えたから」に過ぎず, 祖父Xを失明させる事件の1か月前(1989年12月ごろ)に店の金庫から6万円がなくなる事件があり、その事件でXから疑われたことでXを失明させる事件を起こした, 祖父Xは親交のある信用金庫職員・商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれ、少年鑑別所・少年院収容歴のある者や暴走族現役メンバーのほか、暴力団事務所に出入りしていた者も雇っていた, 高校入学後から以前に増して家庭内暴力が深刻化したため、母親Yは「Sに個室を与えれば収まるはず」と考えて一人部屋を与えたが、Sはさらに増長したためその目論見は裏目に出た, たばこは1日にラーク5箱程度を常用していたほか、酒はウイスキーを特に好み、ボトル半分程度を適量としていた, 後に著者(永瀬本人)と面会した際に「他人の血を見ることは興奮する。暴力をふるううちに相手が弱り、自分に従うようになる姿は勝利の象徴だった」, 1990年9月に母Yが80万円で購入したオートバイで交通事故を起こし、肋骨8本を骨折して以降は治療が長引くうちに怠け癖がつき仕事を休みがちになった, 少女は当初自分の父親に対し「Sとは真剣に付き合っている。彼はそんな悪い人じゃない」と弁明していたが、やがて父親の説得を聞き入れてSを遠ざけるようになり、これに激怒したSが少女宅に押し掛けたため、少女の両親は娘を親戚宅に預けた, Sは永瀬宛の手紙で「交際相手の少女はとても寛容で、当時喧嘩に明け暮れていた自分をありのまま受け入れてくれたおかげで『本音をぶつけ合える相手』とともに平和に暮らしていた。それなのに彼女の両親が『Sが娘に財布から金を盗ませるなどして誑し込み、弄んでいる』と因縁をつけて仲を引き裂いたせいで、殺伐とした世界に逆戻りさせられた。『一応は彼女の親だから』という理由だけで躊躇したが、今思えば『あの時に感情に任せて彼女の両親を殺しておいた方がよかった』と後悔すらしている。そうすれば(後の一家殺害事件のような)無関係な人間ではなく『正当な理由・動機付けのある殺人』で済んでいたはずだ」と述べている, 美容師・フリーターの女性と同棲を経験したが、Sによる暴力が原因でいずれも1,2か月で別れていた, それ以前にもSは女性から結婚を持ちかけられたが、当時は「長期滞在が目的だろう」と考えて断っていた, 永瀬 (2004) は「1992年1月ごろに女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり『マニラの母親の下で産みたい』と訴えたため、1月26日にフィリピンへ帰国した」と述べているが, 千葉地裁で可能な限り公判を傍聴してきた被害者Aの元同僚は被告人Sに死刑判決が言い渡された直後、『千葉日報』記者の取材に対し「Aは仕事熱心でいい人だった。小さい子(次女E)まで殺した被告人Sを許せない。極刑にしてもらいたい」と怒りを露わにしていた, 夫婦仲は良好で、近隣住民は『読売新聞』記者の取材に対し「夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿を見ていた」と証言した, 『読売新聞』は「Dは前夫との娘Bとともに出身地・熊本から市川市に転居して行徳駅前のマンションに部屋を借り写真の勉強をしていた」と報道している, Dが第一子(後の次女Eとは別)を妊娠した際、夫Aは「子供は何人いてもいい。立派な子供を産んでほしい」と喜んでいた, 保育園の職員は事件直後、Eについては同じ保育園に通っていた園児たちに対し事件のことを伏せ「遠くに引っ越した」と伝えた, 事件1年前の1991年2月に自動車学校の合宿講習で運転免許証を取得、翌月(1991年3月)に母親Yの援助を得て433万円余りでクラウンを購入した, 『週刊文春』ではこの110万円窃盗事件に関して「1992年2月上旬にXの鰻屋から売上金120万円をかっぱらったほか、同月下旬には親類宅に合い鍵で侵入して従兄弟(当時高校3年生)の大学進学準備金110万円を盗んだ。親類は合い鍵で侵入されたことから『犯人はSに間違いない』と確信して所轄警察署に被害届を出したほか、Xも弁護士を帯同して千葉県警, 永瀬 (2004) は「Sはこの時にそれまでの鬱屈した気分が晴れ、『強姦は性欲の解消以上に(自分に)優越感・自信を与えてくれる』『セックスと暴力は繋がっている』と思った」と述べている, 丸山 (2010) は「Sは『(Bを)このまま帰すのはもったいない。強姦してやろう』と考えた」と述べている, また、この時にはBの自転車と衝突する前から割れていた車の窓ガラスについて「お前が割った」と言いがかりをつけている, 『フライデー』によれば当時Bは特に深刻そうな様子ではなく「身分証明書を見られた」などとは話していなかったほか、顔の傷に関しては別の友人に対し「高校で先輩にやられた」と話して友人たちから「負けずにやり返してしまえ」とけしかけられていた, 永瀬 (2004) は「Sは当時『仮に誰かがいたとしても、それがB以外だったら彼女の知人のふりでもしておけばいい』と考えた」と述べている, Sは永瀬宛の手紙で「今思えば預金通帳ならまだしも、ほんのわずかな現金を奪う目的で被害者一家に執拗にこだわり、自分の一生を捨ててまで犯行を成し遂げる価値があったとは思えない」と述べている, Sは永瀬宛の手紙で「『年寄り1人が相手なら力で負けることはない』と短絡的思考を抱いていた」と述べている, 永瀬 (2004) は当時のSの心境について「『少し痛い目に遭わせて力関係をわからせてやろう』と考えた」と述べている, 被害者Cの遺体の頸部には首の周りを一周する索溝が形成され、舌骨が左大角の中央部・右大角の中央部において骨折していたほか、右大角付着部においては広く出血を伴い、さらに甲状軟骨の左上角も骨折し、広く周辺に出血を伴っていた, その後、SはA・D夫妻の会社へ赴く前に室内を物色して小銭類を収集し、いつでも持ち去ることができるようにビニール袋に入れていた, この包丁はその長さに加えて先端が鋭く尖っていたことから「十分な殺傷能力を有する物」だった, Sは当時のDの態度を「何も持っていなかったら噛み付かれそうなぐらいの勢いだった」と回顧している, 創洞の長さは約4.6 - 11.3 cmに達し、左肩甲部3か所の刺創(刺し傷)は左肺に達していた, Sは後に捜査段階でEを刺殺した動機を「前夜テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った。しかし自分がBとともに明け方に戻ってきたら泣きわめいていたので殺した」と供述した, 少女Bは当時、母親Dが目の前で刺されたのを見て極度に畏怖し、抵抗不能な状態に陥っていた, Aは左肩甲下部を1回刺されたことにより左肺下葉を貫通し左肺上葉を損傷する創洞の長さ約15.8 cmの刺創(十分致命傷になる刺し傷)を負った, Sは永瀬宛の手紙でAを刺した当時の感触を「人間の体は自分の予想以上に簡単に力が入っていった。むしろ『鰻を捌く時の方が力が要る』と思った」と述べている, 郵便貯金総合通帳1冊(額面257万6,055円)および銀行総合口座通帳1冊(額面103万1,737円), 司法解剖を担当した鑑定人・木内政寛は当時の被害者Aについて「ほとんど運動能力はなく瀕死状態で、立ち上がることはおろか会話することもできない状態だった」と推定した, この時の刺創(刺し傷)は創洞の長さ約12.7 cmで、左肺を貫通・損傷して心嚢・大動脈をも刺切するもので、身体の最枢要部分に1回目の刺創よりさらに重篤な損傷を生じさせるものだった, 妹Eを刺殺する前後、Sは現場806号室から友人に電話を入れ「取り留めもない話」に興じていた, 遺体の傷は「右肩甲下部に刺乳創を形成し、右第六肋間・第七肋骨上縁を損傷して右肺の下葉・中葉・上葉を貫通し、更に胸郭前面で右第三肋骨・第三肋間を損傷して右胸部の刺出口に至る貫通刺創を形成し、創洞の長さは約12.3 cmで、胸腔内には凝血を含む血液約200 ccを貯留していた」ほどの重篤な傷害だった, この前後、Bは高校で同じクラブに入っていた近所に住む同級生の少女宅に「今日は休む。部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた, Aは居間、Dは6畳の和室、EはDが死んでいた和室の隣の6畳の洋室、CはEとは別の7畳の洋室, 永瀬 (2004) によればSはこの時「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とBを脅迫して包丁を持たせようとしたが、Bは放心状態のまま床に座り込んで動かなかった, 千葉県警広報課は事件当時、『朝日新聞』記者の取材に対し「県内で一般の家族4人が殺されたケースはいずれも, なお県警の「被疑者Sが被害者B宅を狙った理由」に関する発表内容は当初「今月2月中旬、SがBを車に連れ込んで乱暴した際に住所・電話番号を聞き出した」というものだったが、その後「脅して身分証明書を奪った」というものに変わった, 事件解決後に『読売新聞』・『千葉日報』はそれぞれ3月11日付朝刊で「Sは警察官が踏み込んだ直後に逃走を図ったが、ナイフを所持していたため銃刀法違反容疑で現行犯逮捕され、署に連行された」と報道した, 10時30分になって千葉県警本部(千葉市中央区)の記者クラブに「市川市内のマンション一室で9時ごろ、家族4人が死亡しているのが発見された」と第一報が伝えられたが、捜査本部の取り調べに対しSは「Bとは昔からの友人」と虚偽の供述をした一方、完全な被害者であったBはショックで何も話せない状態だったため、捜査本部はSの供述通り「2人は友人」と判断した上でマスメディアに向けて発表した, 『朝日新聞』は後の検証記事で当時の状況について「県警からの発表を受けて『長女(B)も事件に関与か』という予断を持ったまま、午後から現場マンションで住民への聞き取り取材を開始したが、『夫婦仲は良かった。長女Bは普通の女の子』という予断とは異なる回答が返ってきた。しかし結果的には, この時に「強盗殺人容疑で少年Sの逮捕状を請求する予定だ」と説明されたが、逮捕状請求前の段階で逮捕が発表されることは異例の措置だった, 永瀬宛の手紙では「もし当時20歳だったら本事件(およびそのきっかけとなった傷害・強姦事件を含め)このような犯罪を犯すことはなかっただろう」と述べている, 千葉地検次席検事・甲斐中辰夫は『千葉日報』記者の取材に対し、その理由を「『被疑者Sの精神状態に異常がある』とは考えていないが、本事件の凶悪性・残虐性など事件内容を考慮して慎重を期した。今後、被疑者Sの犯行当時の精神・心理状態や刑事責任能力の有無を分析する」と説明した, 小田の精神鑑定に先んじて加害者Sに対し2度の精神診断が行われたが、心身鑑別の際に健康診査を担当した医師・今津清はSについて「精神分裂病の罹患は否定でき、薬物乱用による精神病やそれに等価の状態は認められないが、爆発的・惰性欠如および意志の持続性欠如を要素とする人格障害が認められる」という趣旨の判断を下した, 小田は精神鑑定の結果、加害者Sについて「正常な知能を有する反社会性人格障害の診断基準にほぼ合致する爆発性・冷情性精神病質者だが、犯行当時も現在も精神病またはそれに等価の状態に陥ってはおらず、器質的精神障害の存在も認められない。意識状態は終始清明だった。よって犯行当時は事理を弁識し、その弁識に従って行動する能力は喪失しておらず、その能力が著しく障害された状態とも認められない」と結論付けた, 逆送致の理由は「事件は社会を震撼させて世間に多大な影響を与えた。被疑者Sは成人に近い年長者であるため、刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要だ」というものだった, 祖母Cが被告人Sへの咄嗟の抵抗としてSの顔に唾を吐きかけたことに対し、被告人Sが逆上したことで誘発された「偶発的犯行」と認定され, 「Sは捜査段階・公判において一貫して『Cが抵抗しなくなるまで首を力の限り絞め続け、脈を調べてその死亡を確認するなどの行動を取っていた』ことを供述している。公判でも『Cを殺してしまおうという気持ちがあったと思う』など、殺意の存在を認める趣旨の供述をしている」として確定的殺意の存在を認定した, 検察官は妹Eについて「Sは事件現場でC・D・Aを順次殺害して金品を強取し、その後でAの会社から預金通帳などを奪うためにいったん現場を離れたが、それは現場に再び戻ることを予定しての行動だ。現にそれ以前に発見・収集し、ビニール製手提げ袋に入れておいた小銭類を現場に残していたため、一時現場を立ち去ったことを『強盗の現場を離脱した』と解釈することはできず、むしろ犯行を完遂するために現場に戻ったものにほかならない。強盗殺人などの犯行が発覚することを阻止するためにEを殺害したことなどを見れば、E殺害も強盗の機会になされたもので、強盗殺人罪が成立する」と主張した, 被害者Cについて弁護人は「SにはCに対する確定的殺意は認められず、唾を吐きつけられたことに激怒して冷静さを失いとっさに首を絞めた。この時『Cが死亡するかどうか』について考える余裕は全くなく、せいぜい『死ぬかもしれない』という未必的殺意があったにすぎない」と主張して確定的殺意の存在を否認した, 「刃物で突き刺すことでDが死亡することを認識・予見しながら、単に犯行の通報などを阻止するにとどまらず、進んで金品を強取する目的で敢えて刺突行為に及んだ。無抵抗になったDを数回鋭利な包丁で突き刺し、刺されたDが大量に出血して苦しむ姿を見ても何ら救命措置を講じておらず、その後もDが既にいないことを前提に行動していた」として「被害者Dの死を意欲していた(=確定的殺意があった)とまでは認められないが、死に至る危険性は十分に認識・予見していたため、未必の殺意が認められる」と事実認定した, 冒頭陳述では「逃げ出されると思い刺した」と主張し、殺意だけでなく「金品強取の目的」も否定した, Sは捜査段階ではDへの殺害行為に関して「Dが死亡するかもしれないとは思ったが、激情のまま敢えて意に介さず突き刺した」と供述したが, Aへの殺害行為については「十分な殺傷能力を有した柳刃包丁を使い、瀕死状態のAを敢えて再び刺突した。その後Aの安否を心配した様子はなく、捜査段階でも(妻Dと同じく)『被害者が死亡するかもしれないことを認識しながら激情の赴くままに敢えて意に介することなく突き刺した』と供述しているため、被害者Aへの確定的な殺意が認められる」と事実認定した, 弁護人は「殺意はないため強盗殺人罪ではなく強盗致死罪が成立するにすぎない」と主張した上、被告人S自身も「柳刃包丁で突き刺した時は「Aが死ぬかもしれない」とまでは考えなかった」と主張した, 弁護人はEの殺害について「朝起きて騒ぎ始めたので、事件の発覚を恐れて驚いて刺した。強盗目的もない」と単純殺人罪を主張した, 罪状認否に先立ち弁護人は、検察側に対し「起訴状に記載されている殺意は、確定的殺意か未必的殺意か」と説明を求めたが、検察官は「立証段階で明らかにする」と回答した, 起訴前に検察側の依頼で行われた小田の鑑定と異なり、福島の鑑定は被告人Sの矯正可能性に重点を置いた点が特徴だった, 精神鑑定を担当した福島は、被告人Sと直接面接した際の印象について「率直で正直な態度で、素朴な好青年と感じた」と表現した上で「被告人Sは事件について強い後悔・羞恥心を持ち、被害者に対する哀悼の気持ちを抱いていると感じた」と評価した, 千葉地裁 (1994) は「その察するに余りある精神的衝撃の一端を窺わせる供述」と認定している, 弁護人は「小田は精神鑑定前から『死刑を適用すべき』と言及するなど偏見があり、その鑑定結果は信憑性がない」と主張した, 『読売新聞』は「死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及した」と報道している, 「被告人Sの犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない」と主張していた, 神田は退官後の2008年に『毎日新聞』の記者から取材を受け「人命が奪われるのだから(死刑でよかったとは思わない。被告人Sに憎しみは持たないし、持ってはいけないと思う」と述べている, 住職は死刑執行翌日(2017年12月20日)に死刑囚Sの供養を行ったが戒名は与えなかった, 2016年時点では「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が実施している, 当時、新証拠として挙げたものは「(確定判決で問題となった)上智大学教授・福島章の精神鑑定結果」「死刑囚Sの成育歴・脳のMRI検査結果を考慮して再度行った精神鑑定結果」であった, 安田は死刑執行後に「月命日には被害者4人への謝罪の祈りをして冥福を祈っていた。Sの獄中生活の長さ(逮捕 - 死刑執行まで25年)を考えればもう生き直したも同然だから死刑執行の是非を再検討する機会があっても良かったはずだ」と述べている, Sが生前最後に一場と面会したのは2017年10月末で、一場は死刑執行直後に産経新聞などの取材に対し「死刑囚Sは死刑執行まで新聞をよく読んでいた」と述べている, 一場は死刑執行を受けて『中日新聞』の取材に対し「解離性障害の可能性から責任能力の有無を争って再審を請求していた」と証言したが, 同会副会長・藤岡拓郎は『千葉日報』の取材に対し「死刑制度自体の問題・犯行当時少年に対する死刑執行への反対姿勢」を明確にした上で「死刑を執行すべきではなく極めて遺憾だ」と非難した, 同誌は1992年3月19日号・3月26日号と2週連続で組まれた特集記事でSを「牧和雄」の仮名で報じ, 死刑が確定すると面会は親族・弁護士に限定され、外部の人間との接触は原則として不可能になる, 永瀬から「Yから取材を拒否された」と伝えられた際には「Yがとんだ無礼を働いて申し訳ない。Yは自分たちの置かれた立場を理解していない」と述べている, 永瀬との面会で「本当に生まれ変われると信じているのか?」と質問された際には「生まれ変われると信じている。そう信じていないと目標がなくなる(自分の場合は判決は目標にならない)」と答えている, この事故の直後に病院で検査をした際「転倒の衝撃で顎の骨が割れている」と判明したため、永瀬はその治療のために3週間入院し、その間は東京拘置所にも通えなかったが「側頭部・後頭部からではなく顎から倒れ、砕けた歯・顎がクッションになったから助かった。『顎が割れた程度で済んでよかった』と思う」と回顧している, 同書に対しては同業者のライター・編集者から「よく取材した」と好意的な意見もあったが「読後感が悪い」と否定的な声もあり、「今後のためにもっと建設的な仕事をした方がいい」とも指摘された, その内容は「1991年10月、当時フィリピン滞在中だったSは結婚相手の女性の兄(義兄)とともにマニラのカラオケスナックに来ていたが、その場で現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた」という記述で, 永瀬からその暴言を咎められると一転して「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外で会っていれば自分も変わっていたと思うが、自分にはあなたのように叱ってくれる人間がいなかった」と発言した, 「永瀬と面会できない理由」に関しては「死刑確定までの時間が限られているので平日はほぼ毎日、修道会の方・関係者の方々と交代で面会するスケジュールを組んでいるため」と説明されていた, Sは弟について「自分とは正反対の人間」と述べており、実際にSの弟と対面した永瀬も彼に対しては同様の印象を抱いていた, 朝倉の取材を受けた鰻屋の同僚は「XはSに鰻屋を継がせようと思っていたなら『自分の孫と思わず、厳しく鍛えてやってくれ』と現場に手配りをすべきだったが、実際にはその逆だった。しかしSは叱られた際はいつも素直で、一度ウナギを焼かせてやった時は一人前に扱ってもらえたことが嬉しかったのか、そのことをあちこちで吹聴していた。だから、Sは自分がきちんと面倒を見て厳しく指導していればあのような事件を起こさずに済んだはずだ」と証言し、朝倉はその同僚を「相手が誰だろうと歯に衣を着せず、筋を通す姿勢が身についていた」と評している, 『千葉日報』2017年12月20日朝刊一面1頁「市川一家4人殺害 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり 再審請求中、群馬3人殺害も」(千葉日報社), 『千葉日報』1992年11月6日朝刊社会面19頁「市川の一家4人殺害 強盗殺人で少年起訴 公開の法廷で裁判へ」(千葉日報社), 『千葉日報』1992年3月7日朝刊社会面19頁「凶行におびえる住民 市川の一家4人殺害事件 『こんな身近な所で…』 新興住宅地に衝撃」「涙浮かべ言葉なく 長女の通う保育園の保母」(千葉日報社), 『千葉日報』1992年12月26日朝刊社会面19頁「少年、殺意の一部を否認 市川・一家4人殺し初公判 弁護側 未必の故意主張」「大きな体、小さな声…少年の心の叫び聞こえず」(千葉日報社), 『日本経済新聞』1992年11月6日朝刊社会面39頁「公開の法廷へ 社長一家殺人の19歳少年 『強盗殺人』で起訴」(日本経済新聞社), 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大性、少年法に波紋 県弁護士会『極めて遺憾』」(千葉日報社), 『読売新聞』2001年12月22日東京朝刊第二社会面30頁「千葉・市川の一家4人殺害事件 元少年の死刑確定/最高裁第二小法廷」(読売新聞東京本社), 『千葉日報』1992年3月11日朝刊社会面19頁「市川の一家4人惨殺 『金が足りない』 家族らを殺害した後で通帳探しに行かせる」(千葉日報社), 『中日新聞』2018年3月4日朝刊第11版広域第一社会面33頁「少年と罪第9部 『生と死の境界で』 (上)因果 償いきれぬ苦悩残し」(中日新聞社), 『朝日新聞』1992年3月9日東京朝刊千葉版地方面27頁「甘えた生活(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:下) 部屋代10万母親支払い 無断欠勤たびたび」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『東京新聞』2000年7月29日夕刊第一社会面11頁「前線日記 19歳で一家4人殺害 拘置所からの手紙 『凶悪犯罪生む勝ち組社会』『夢も希望もない』 少年法厳罰化『きっと変わらない』」(中日新聞東京本社), 『中日新聞』2000年7月29日夕刊第一社会面11頁「死刑判決元少年からの手紙 『少年法考えなかった』『私は将来を求めない』 あの日がフラッシュバック 法改正しても『変わらぬ』 『勝ち組』社会に不平等感」(中日新聞社), 『中日新聞』1992年3月10日夕刊ワイド面右8頁「特報ワイド/千葉の一家4人殺害容疑者 19歳少年、犯行の背景 影落とす複雑家庭環境 人への思いやり育たず 一時は甲子園を目指す」(中日新聞社), 『読売新聞』1992年3月8日東京朝刊社会面31頁「一家4人殺害 『200万円欲しかった』 容疑者の少年供述『ヤクザに脅されて』」(読売新聞東京本社), 『千葉日報』1992年3月9日朝刊社会面19頁「音楽好き、英語も得意… 残忍さの裏に意外性 市川の一家4人殺害 少年を送検」(千葉日報社), 『千葉日報』1994年8月9日朝刊社会面19頁「『冷酷、非道』と断罪 市川市の一家4人殺害判決 被告、判決にも表情変えず 一瞬、静まり返る廷内」「千葉地裁前 傍聴券を求め長い列 異常な犯罪に強い関心」「判決に失望 死刑廃止議員連盟が声明」「解説 死刑存廃論議に波紋 少年犯罪に厳しい姿勢」(千葉日報社), 『東京新聞』2001年12月4日朝刊一面1頁「犯行時19歳の死刑確定へ 市川の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」(中日新聞東京本社), 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊第一社会面31頁「生存の長女は少年と無関係と判明 千葉の4人殺害(ニュース三面鏡)」(朝日新聞社), 『中日新聞』1992年3月15日朝刊第二社会面30頁「長女が最大の被害者 千葉の一家4人殺害 一時は"共犯"扱い」(中日新聞社), 『朝日新聞』1992年3月10日東京朝刊千葉版地方面22頁「重い課題(衝撃の刃・報道検証 市川の一家4人殺人)千葉 長女『参考人』に予断 実は最大の被害者 『単独犯』に記者席騒然」(, 『朝日新聞』1992年3月8日東京朝刊千葉版地方面29頁「残忍な手口(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:上)計画性も浮き彫りに 多くの人の心に傷」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『日本経済新聞』1992年3月7日夕刊社会面11頁「市川の一家4人殺害 少年を本格追及 千葉県警」「『園児には話せない』二女の保育園」(日本経済新聞社), 『千葉日報』1993年3月4日朝刊社会面19頁「残虐な連続犯行を詳述 市川一家4人殺し 第2回公判で検察側」「血に染まった凶器に驚く被告」(千葉日報社), 『千葉日報』1992年3月13日朝刊社会面19頁「惨劇の記憶生々しく 市川の4人殺害事件から1週間 欲しい物は欲しい 容疑者の少年 幼児のような人間性」「遺影に最後の別れ 悲しみの中、4人の葬儀 養女を気遣う住民も」(千葉日報社), 『朝日新聞』1992年3月11日東京朝刊千葉版地方面27頁「長女を使い、通帳も手に 市川の家族4人殺し」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊社会面39頁「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」(日本経済新聞社), 『読売新聞』1992年3月11日東京朝刊第一社会面31頁「凶行後、養女5時間連れ回す 一家4人殺害"異常な17時間" 『200万円に足りない』と会社から通帳持ち出さす」(読売新聞東京本社), 『千葉日報』1992年3月12日朝刊社会面19頁「悲しみ誘う養女の姿 市川の一家4人殺害 近所の人たちで通夜」(千葉日報社), 『読売新聞』1992年3月10日東京朝刊千葉県京葉地方面26頁「市川の一家4人強殺 “狂気”17時間半も 2遺体解剖で判明」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『読売新聞』1993年3月4日東京朝刊京葉版地方面24頁「凶行の現場、生々しく 市川の一家4人殺人検察冒陳」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『読売新聞』1992年3月7日東京朝刊千葉県京葉地方面26頁「市川の一家4人強殺 高層の惨劇 おののく住民 『何もしてない』叫ぶ店員」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『朝日新聞』1992年3月7日東京朝刊千葉版地方面27頁「残忍な犯行『なぜ』 市川の一家4人殺人、強殺容疑で少年逮捕へ 金奪い次々と殺す 長女も背中に刺し傷」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『読売新聞』1992年3月6日東京夕刊第一社会面19頁「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」(読売新聞東京本社), 『朝日新聞』1992年3月6日夕刊第一社会面19頁「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取 市川」(朝日新聞社), 『日本経済新聞』1992年3月6日夕刊第一社会面19頁「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」(日本経済新聞社), 『中日新聞』1992年3月6日夕刊第一社会面19頁「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」(中日新聞社), 『千葉日報』1992年3月8日朝刊社会面19頁「市川・一家4人殺害の少年 『暴力団に脅され』 取り調べで容疑認める 被害者宅から凶器の包丁」「一夜明け悲しみ新た」「凶悪化を象徴 相次ぐ少年犯罪」「子供たちには話しません 衝撃隠せぬ長女の保育園」(千葉日報社), 『読売新聞』1992年3月7日東京夕刊社会面15頁「千葉・市川の一家4人殺し容疑者 計画的犯行か」(読売新聞東京本社), 『日本経済新聞』1992年3月8日朝刊社会面31頁「『200万円欲しくて』 市川の一家殺害 逮捕の少年供述」(日本経済新聞社), 『日本経済新聞』1992年3月9日朝刊社会面35頁「4人殺害の少年送検 千葉県警」(日本経済新聞社), 『読売新聞』1992年3月9日東京朝刊第二社会面30頁「千葉・市川の一家4人殺害事件 19歳の少年を送検」(読売新聞東京本社), 『千葉日報』1992年3月10日朝刊第二社会面18頁「背中の傷、肺まで 一家4人殺害で解剖」(千葉日報社), 『朝日新聞』1992年3月19日朝刊第三社会面29頁「原則実名から広がる匿名 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア)」(※本事件およびその前月に発生した, 『毎日新聞』1992年3月6日大阪夕刊第一社会面11頁「マンションで5人家族の一家4人、刺殺される--千葉・市川市」(, 『産経新聞』1992年3月7日東京朝刊一面1頁「19歳少年を逮捕 一家4人殺害 金欲しさの犯行 市川」(産経新聞東京本社), 『産経新聞』1992年3月7日東京朝刊第一社会面27頁「千葉の一家4人惨殺 次々と殺し一夜籠もる 寝ている幼女まで 長女にも切りつけ“監禁”」(産経新聞東京本社), 『朝日新聞』1992年3月18日朝刊第三社会面29頁「『匿名』『実名』分かれる判断 2つの殺人事件報道―テレビ編(メディア)」(※本事件とおよびその前月に発生した, 『読売新聞』1992年3月14日東京朝刊気流16頁「[気流]新聞と私 差別を受けやすい養子・養女に配慮を」(, 『千葉日報』1992年3月26日朝刊社会面19頁「少年を精神鑑定へ 市川の一家4人殺し 責任能力など分析」「実名報道で要望書」(千葉日報社), 『千葉日報』1992年6月17日朝刊社会面19頁「市川・一家4人殺害の少年 9月上旬まで鑑定延長 『責任能力』さらに詳しく」(千葉日報社), 『日本経済新聞』1992年3月26日朝刊社会面39頁「19歳少年精神鑑定へ 千葉の一家4人殺し」(日本経済新聞社), 『読売新聞』1992年3月26日東京朝刊社会面31頁「千葉・市川の一家4人殺し 少年を鑑定留置」(読売新聞東京本社), 『千葉日報』1993年11月23日朝刊社会面19頁「『責任問えるが性格異常』弁護側鑑定を採用 市川の一家4人殺し 千葉地裁4回公判 情状面で有利な資料」(千葉日報社), 『読売新聞』1993年5月20日東京朝刊京葉版地方面26頁「再度、被告の精神鑑定へ 市川の一家4人殺害 公判の長期化必至」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『読売新聞』1993年11月21日東京朝刊京葉版地方面26頁「市川の一家4人殺し 『被告の病質は矯正可能』 新たな鑑定出る 上智大の福島教授 小田鑑定とは異なる結果」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『朝日新聞』1992年11月6日朝刊第二社会面30頁「強盗殺人罪などで少年を起訴 市川の一家4人殺害事件」(朝日新聞社), 『中日新聞』1992年10月2日朝刊社会面27頁「4人殺害の少年『刑事処分相当』 千葉地検が家裁送致」(中日新聞社), 『朝日新聞』1992年10月3日東京朝刊千葉版地方面27頁「『刑事処分相当』と少年を家裁に送付 市川の家族4人殺害」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『朝日新聞』1992年10月28日東京朝刊千葉版地方面27頁「少年を地検へ逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『朝日新聞』1992年11月6日東京朝刊千葉版地方面27頁「市川の一家4人殺人で少年起訴 刑事処分妥当と判断」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『中日新聞』1992年11月6日朝刊社会面31頁「一家4人殺害の19歳少年を起訴 千葉、公開法廷へ」(中日新聞社), 『読売新聞』1992年11月6日東京朝刊社会面31頁「千葉・市川の一家4人殺し 19歳少年を起訴」(読売新聞東京本社), 『千葉日報』1993年2月18日朝刊社会面19頁「事件前にも数々の犯行 市川の一家4人殺害の少年 千葉地検 4つの罪で追起訴」(千葉日報社), 『朝日新聞』1993年2月18日東京朝刊千葉版地方面23頁「傷害・恐喝などの被告を追起訴 市川の四人殺害事件/千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『朝日新聞』2001年12月4日朝刊第一総合面1頁「上告棄却で犯行時19歳の死刑確定 千葉・市川の一家殺傷事件」(朝日新聞社), 『読売新聞』1992年12月26日東京朝刊京葉版地方面26頁「市川の一家4人強盗殺人初公判 被告の少年『殺意』一部否認 事実関係、大筋認める 一瞬おびえ 聴き取れぬ小さな声」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『読売新聞』1994年6月2日東京朝刊京葉版地方面26頁「一家4人殺し結審 少年被告、涙の訴え 『生きていく中で償い』」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『千葉日報』1993年5月20日朝刊社会面19頁「市川市の一家4人殺し 公判中に被告を再鑑定 弁護側申請認める 千葉地裁で異例の展開『犯罪心理学から』」(千葉日報社), 『読売新聞』1994年8月8日東京朝刊京葉版地方面24頁「市川の一家4人殺しあす注目の判決 少年事件と死刑の是非 検察側『極刑を』弁護側『無期』主張」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『千葉日報』1994年8月9日朝刊一面1頁「市川の一家4人殺害 19歳少年(犯行時)に死刑判決 千葉地裁 罪刑の均衡重視」「ほぼ主張通りの判決◇千葉地検の三谷紘次席検事の話」「死刑判決は残念◇奥田保主任弁護人の話」(千葉日報社), 『朝日新聞』1992年12月26日東京朝刊千葉版地方面19頁「少年、強盗殺人の一部否認 家族4人殺人事件の初公判 千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『朝日新聞』1992年12月26日朝刊社会面23頁「2人について殺意を否認 市川市の『4人殺害』事件公判」(朝日新聞社), 『産経新聞』1992年12月26日東京朝刊社会面「2人について殺意否認 千葉の4人殺し少年の初公判」(産経新聞東京本社), 『朝日新聞』1993年3月4日東京朝刊千葉版地方面27頁「『目的は金』と検察冒頭陳述 市川の一家四人殺害公判/千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『朝日新聞』1993年5月20日東京朝刊千葉版地方面27頁「再度の精神鑑定決定 市川の4人殺人事件公判/千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『読売新聞』1993年11月23日東京朝刊京葉版地方面26頁「4人殺害被告少年 矯正可能の弁護側鑑定 地裁、証拠に採用」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『朝日新聞』1993年11月23日東京朝刊千葉版地方面27頁「市川の4人殺人公判 弁護側から鑑定書提出/千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『千葉日報』1994年2月1日朝刊第二社会面18頁「情状面を主張 市川4人殺し第5回公判」(千葉日報社), 『千葉日報』1994年3月15日朝刊社会面19頁「来月4日に論告求刑 市川の親子4人殺し」(千葉日報社), 『読売新聞』1994年4月3日東京朝刊京葉版地方面24頁「市川市の会社役員一家4人殺害、あす求刑公判 当時19歳極刑求刑か 検察側『残酷で刑事責任大』」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『千葉日報』1994年4月5日朝刊一面1頁「残虐な犯行と死刑求刑 市川市の一家4人殺し」「厳し過ぎる求刑 ◇A(S)被告の弁護人・奥田保弁護士の話」(千葉日報社), 『千葉日報』1994年4月5日朝刊社会面19頁「無軌道な犯行厳しく追及 市川の一家4人殺し 検察側論告 まれにみる凶悪犯罪 情状の余地なしと極刑で」「『意外な求刑…』弁護側会見」(千葉日報社), 『中日新聞』1994年4月5日朝刊第二社会面26頁「『少年』に死刑求刑 千葉地裁 一家4人強殺で検察側」(中日新聞社), 『朝日新聞』1994年4月5日東京朝刊千葉版地方面27頁「極刑に廷内重苦しく 市川の一家殺害で死刑求刑/千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『朝日新聞』1994年4月5日朝刊第一社会面31頁「検察、死刑を求刑 19歳少年の一家4人強盗殺人 千葉地裁」(朝日新聞社), 『日本経済新聞』1994年4月5日朝刊社会面35頁「少年(当時)に死刑求刑 千葉・市川の一家4人殺害 検察『身勝手、残虐な犯行』」(日本経済新聞社), 『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊社会面27頁「市川の一家4人殺し 当時19歳少年に死刑求刑 酌量の余地ない/千葉地裁」(読売新聞東京本社), 『産経新聞』1994年4月5日東京朝刊社会面「市川・一家4人殺害 少年に死刑を求刑 検察『罪減じる余地なし』」(産経新聞東京本社), 『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊京葉版地方面24頁「市川の一家4人惨殺 当時19歳に死刑求刑 『一命をもって償うべきだ』 犯行厳しく糾弾 検察側 "死刑存廃"揺れる中」「『意外な求刑』と弁護側 『国際社会への挑戦』『攻撃性の矯正可能』」「"最悪事態"も予期?被告は頭を垂れたまま」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『読売新聞』1994年4月16日東京朝刊京葉版地方面24頁「弁護側『死刑』問う 市川の一家殺害 最終弁論は延期に」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『千葉日報』1994年4月28日朝刊社会面19頁「弁護側、改めて証拠提出 市川の一家4人殺し 鑑定の信憑性問う」(千葉日報社), 『読売新聞』1994年4月28日東京朝刊京葉版地方面24頁「市川の一家殺人 『死刑を問う』弁護側申請 報道記事など証拠採用」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『千葉日報』1994年6月2日朝刊社会面19頁「『死刑科すべきでない』市川市の一家殺害 最終弁論で弁護側 8月8日に判決」(千葉日報社), 『朝日新聞』1994年6月2日東京朝刊千葉版地方面31頁「『罪を償いたい』最終弁論で被告 市川の一家4人殺人/千葉」(朝日新聞東京本社・千葉総局), 『千葉日報』1994年8月9日朝刊第二社会面18頁「『極刑』に沈痛な表情 弁護団が会見 犯行時、被告は未成熟」「自分の言葉で事件語らず 『生と死』の裁判 公判での被告 ひとごとのよう」「『当然だ』『心の解明を』死刑判決に評価さまざま」「識者の談話」「判決要旨」(千葉日報社), 『中日新聞』1994年8月8日夕刊一面1頁「一家4人殺害事件 19歳少年(当時)に死刑判決 千葉地裁『犯行は残虐で冷酷』」(中日新聞社), 『朝日新聞』1994年8月8日夕刊第一総合面1頁「犯行時19歳の被告に死刑 一家4人殺人 千葉地裁、罪刑の均衡重視」(朝日新聞社), 『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊社会面15頁「一家4人殺害 死刑…重苦しい廷内 『尊い命、命で償いを』/千葉地裁」(読売新聞東京本社), 『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊社会面11頁「事件時19歳少年に死刑判決 『少年法の精神』論議の時期(解説)」(読売新聞東京本社), 『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊京葉版地方面20頁「一家4人殺害死刑判決 深々頭、こわばる被告 傍聴の母、口を結び涙 住民言葉少な『思い出したくない』」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『産経新聞』1994年8月8日東京朝刊社会面「市川の一家4人殺害、求刑死刑にきょう判決 千葉地裁」(産経新聞東京本社), 『産経新聞』1994年8月8日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 19歳被告(犯行時)に死刑判決 少年に適用10人目」(産経新聞東京本社), 『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊一面1頁「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり 千葉地裁」(読売新聞東京本社), 『日本経済新聞』1994年8月8日夕刊一面1頁「少年(当時)に死刑判決 市川の一家4人殺害 千葉地裁『冷酷非道な犯行』」(日本経済新聞社), 『産経新聞』1994年8月8日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 『罪刑均衡の見地から』 残虐犯行に極刑の断」(産経新聞東京本社), 『朝日新聞』1994年8月9日朝刊第一社会面23頁「死刑判決受けた被告が東京高裁に控訴 市川の一家4人強殺事件」(朝日新聞社), 『中日新聞』1994年8月9日朝刊第二社会面22頁「死刑判決の被告控訴」(中日新聞社), 『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊社会面23頁「千葉の一家4人殺害事件 死刑判決の被告が控訴」(読売新聞東京本社), 『日本経済新聞』1996年7月2日夕刊社会面17頁「当時19歳被告 二審も死刑 千葉・市川の一家4人殺害 東京高裁判決」(日本経済新聞社), 『読売新聞』1996年7月2日東京夕刊一面1頁「千葉・市川の一家4人殺し 犯行時19歳少年、二審も死刑 東京高裁が控訴棄却」(読売新聞東京本社), 『朝日新聞』1996年7月2日夕刊第一総合面1頁「犯行時、19歳被告の死刑を支持 市川の一家殺人事件 東京高裁判決」(朝日新聞社), 『中日新聞』1996年7月2日夕刊社会面15頁「千葉の一家4人殺害 当時少年も死刑 東京高裁『犯した罪は重大』」(中日新聞社), 『千葉日報』1996年7月3日朝刊一面1頁「犯行時19歳少年2審も死刑 『残虐、冷酷な犯行』 東京高裁控訴棄却 弁護側は即日上告」「立ち直るチャンスを 議員連盟などが判決批判」「解説 事案の大きさ重くみる」(千葉日報社), 『産経新聞』1996年7月2日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 当時少年、二審も死刑 東京高裁判決『罪の重大性から相当』」(産経新聞東京本社), 『読売新聞』2001年3月6日東京朝刊第二社会面38頁「千葉・市川の一家4人殺害事件 最高裁、来月に弁論」(読売新聞東京本社), 『朝日新聞』2001年3月6日朝刊第二社会面38頁「市川の殺害、来月弁論 最高裁」(朝日新聞社), 『毎日新聞』2001年3月6日東京朝刊社会面31頁「千葉・少年の死刑事件 来月13日に弁論 最高裁」(, 『産経新聞』2001年3月6日東京朝刊社会面「市川の一家4人殺害 最高裁が4月に弁論」(産経新聞東京本社), 『千葉日報』2001年4月14日朝刊社会面19頁「死刑回避求める 市川の一家4人殺害で弁護側」(千葉日報社), 『朝日新聞』2001年4月14日朝刊第二社会面38頁「最高裁で弁論 市川の一家殺害事件」(朝日新聞社), 『日本経済新聞』2001年4月14日朝刊社会面39頁「千葉の少年 一家4人殺害弁護側『死刑回避を』最高裁で弁論 今夏にも判決」(日本経済新聞社), 『産経新聞』2001年4月14日大阪朝刊社会面「最高裁で結審、今夏にも判決 千葉の一家4人殺害」(, 『毎日新聞』2001年4月14日朝刊社会面27頁「千葉・市川の一家殺害 死刑判決の元少年、最高裁で審理」(毎日新聞社), 『読売新聞』2001年11月14日東京朝刊京葉版地方面30頁「市川の一家4人殺害事件 上告審判決、12月3日に=千葉」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『産経新聞』2001年11月14日大阪朝刊社会面「来年3日に判決 市川の一家4人殺害上告審」(産経新聞大阪本社), 『産経新聞』2001年11月14日東京朝刊社会面「来年3日に判決 市川の一家殺害上告審」(産経新聞東京本社), 『千葉日報』2001年12月4日朝刊一面1頁「犯行時少年の死刑確定へ 市川市の一家4人殺害事件 最高裁が上告棄却」(千葉日報社), 『千葉日報』2001年12月4日朝刊社会面23頁「市川の一家4人殺害 後絶たぬ凶悪少年犯罪 死刑判決や厳罰化でも」(千葉日報社), 『中日新聞』2001年12月4日朝刊第一社会面31頁「犯行時少年の死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」「被告が本紙に手記 『僕を反面教師にして』」(中日新聞社), 『東京新聞』2001年12月4日朝刊第一社会面27頁「早く消えたい…自暴自棄にも 今は生き抜き罪あがないたい 僕の経験が反面教師になれば 『死刑確定』の当時19歳、心境赤裸々に 市川4人殺害 本紙に告白手記 今なおいえぬ遺族の心の傷」(中日新聞東京本社), 『日本経済新聞』2001年12月4日朝刊社会面39頁「当時19歳被告死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」(日本経済新聞社), 『朝日新聞』2001年12月4日朝刊社会面33頁「『適用基準』改めて確認 市川の殺人、未成年の死刑確定<解説>」(朝日新聞社), 『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊一面1頁「犯行当時19歳・市川の一家4人殺害 上告棄却、最高裁も死刑支持」(読売新聞東京本社), 『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊第二社会面38頁「千葉・市川の一家4人殺害の元少年死刑 『冷酷、残虐』と極刑選択/最高裁」「3日の千葉・市川の一家4人殺害事件の判決要旨」(読売新聞東京本社), 『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊京葉版地方面34頁「市川の一家4人殺害上告棄却 凶悪犯罪も当時、未成年 住民ら極刑に複雑=千葉 ◇一家4人殺害事件の経過」(読売新聞東京本社・京葉支局), 『毎日新聞』2001年12月4日朝刊社会面27頁「千葉・市川の一家4人殺害 当時19歳の男性、死刑確定へ 最高裁が上告棄却 ◇少年、1990年以来」(毎日新聞社), 『産経新聞』2001年12月4日東京朝刊一面1頁「市川の一家4人殺害 当時少年の死刑確定へ 永山元死刑囚以来 最高裁上告棄却」(産経新聞東京本社), 『産経新聞』2001年12月4日大阪朝刊一面1頁「一家4人殺害 当時、少年の死刑確定へ 永山元死刑囚以来 最高裁が上告棄却」(産経新聞大阪本社), 『産経新聞』2001年12月4日大阪朝刊社会面「当時少年の死刑確定へ 『何をやったか考えて』 被害者の会『当然の判決』」(産経新聞大阪本社), 『中日新聞』2001年12月31日朝刊県内版14頁「【愛知県】事件ファイル2001(下) 連続リンチ殺人判決 木曽川・長良川事件 元少年のA (KM) 被告に死刑 3被告全員を検察側控訴 遺族の強い不満後押し」(中日新聞社 社会部記者・吉枝道生) - 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の関連記事, 『朝日新聞』2001年12月22日朝刊第二社会面30頁「市川の一家殺害で死刑判決が確定 最高裁、申し立て棄却」(朝日新聞社), 『中日新聞』2001年12月22日夕刊社会面10頁「当時19歳の死刑確定」(中日新聞社), 『日本経済新聞』2001年12月22日西部朝刊社会面17頁「当時少年の死刑確定 千葉の一家4人殺害」(日本経済新聞社), 『産経新聞』2001年12月22日東京朝刊社会面「市川の一家4人強殺 当時少年の死刑が確定」(産経新聞東京本社), 『産経新聞』2001年12月22日大阪朝刊社会面「当時少年の死刑確定」(産経新聞大阪本社), 『朝日新聞』2010年11月26日朝刊宮城全県版第一地方面29頁「向き合った極刑の重み 石巻・3人殺傷に死刑判決 ドキュメント/宮城県」(※, 『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『少年たちの反面教師に』 S死刑囚 刑確定前に手記」「廃止要請も議論低調」(中日新聞社), 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第二社会面18頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 日弁連の廃止要請も 死刑、国内の議論低調」(千葉日報社), 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第二社会面18頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 判断内容、十分説明を」(千葉日報社), 『読売新聞』2017年12月20日朝刊第14版第二社会面32頁「元少年ら2人死刑執行 市川一家殺害と群馬3人殺害」(読売新聞社), 『中日新聞』2017年12月19日夕刊一面1頁「20年ぶり 元少年の死刑執行 千葉4人殺害 永山元死刑囚以来」「群馬3人殺害死刑囚も」(中日新聞社), 『産経新聞』2017年12月20日朝刊第13版第一社会面27頁「元少年死刑 20年ぶり執行 群馬の親子殺害死刑囚も」(, 『朝日新聞』2017年12月20日朝刊第14版第一社会面33頁「犯行時少年の死刑波紋 再審請求中 弁護士『無念』」(朝日新聞社), 『東京新聞』2017年12月22日朝刊特報面28頁「こちら特報部 死刑 存廃議論進まぬ中(上) 再審請求中、犯行時少年に執行 廃止が世界の潮流◆欧州から非難声明」(中日新聞東京本社), 『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『少年 執行すべきでない』 小川原優之・日弁連死刑廃止検討委員会事務局長の話」(中日新聞社), 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19頁「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大で執行は当然 諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話」(千葉日報社), 『中日新聞』2017年12月19日夕刊第一社会面11頁「『事件の重大性から当然』 諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話」(中日新聞社), 『産経新聞』1992年3月14日朝刊社会面21頁「千葉・一家4人殺害の19歳少年 週刊新潮が実名報道 旧態依然と問題提起 『少年法』再び論議」(産業経済新聞社), 『朝日新聞』1992年3月27日朝刊第三社会面29頁「論議呼ぶ19歳容疑者の実名報道 少年法巡り異なる見方(メディア)」(朝日新聞社), 『朝日新聞』1992年3月26日朝刊第三社会面29頁「新潮社の少年報道、人権を損なう 東京弁護士会が要望書」(朝日新聞社), 『中日新聞』2011年3月11日朝刊第二社会面30頁「リンチ殺人死刑確定へ 実名『更生する可能性なく』匿名『少年法の精神基づく』 報道各社対応割れる」(※, 『中日新聞』2017年12月20日朝刊第一社会面27頁「少年と罪 凶悪犯に厳罰の流れ 少年法引き下げで論議■97年神戸連続殺傷が転機に■判決確定時の実名報道主流」(中日新聞社), 『朝日新聞』2011年3月11日朝刊第一総合面1頁「元少年3人死刑確定へ 最高裁 4人殺害『責任重大』」(※大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の最高裁判決を報じる記事), 『朝日新聞』2004年6月21日朝刊第二社会面30頁「朝日新聞指針『事件の取材と報道2004』 4年ぶり全面改訂」(朝日新聞社), 『中日新聞』2017年12月20日朝刊第一社会面27頁「元少年 20年ぶり死刑執行 千葉一家4人殺害 永山元死刑囚以来」(中日新聞社), 『産経新聞』2000年11月6日東京朝刊読書頁「【書評】『19歳の結末 一家4人惨殺事件』 祝康成著 少年殺人犯の内面に迫る」(文化部記者:, 『産経新聞』2000年11月6日大阪朝刊「【BOOK・本】『19歳の結末―一家4人惨殺事件』 祝康成著」(文化部記者:梶山龍介), 少年の死刑事件 : 千葉地裁平成6年8月8日判決に関する一考察(The Death Penalty for Minors : A Case Study of the Chiba District Court Trial of Aug. 8,1994), 市川一家4人殺害のS死刑囚らの死刑執行 犯行当時未成年は永山則夫元死刑囚以来 法務省(1/2ページ), 19歳で犯行、S死刑囚 一家4人を次々殺害 生き残った15歳の長女を監禁の冷酷非情, “19歳の殺人者『市川一家四人殺人事件』Sが死刑執行【凶悪少年犯罪の季節だった】”, http://web.archive.org/web/20180511121729/http://tablo.jp/case/news002659.html, 一家4人殺害で死刑執行のS死刑囚「4人が許せないと自分にくっついている」弁護士に心境, 【抗議声明】2017年12月19日 ××さん(東京拘置所)、Sさん (東京拘置所)死刑執行に対する抗議声明, 死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明, 市川一家4人殺害のS死刑囚らの死刑執行 犯行当時未成年は永山則夫元死刑囚以来 法務省(2/2ページ), https://web.archive.org/web/20171219132954/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24799810Z11C17A2CC0000/, https://web.archive.org/web/20171223152255/http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00961.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=市川一家4人殺害事件&oldid=82058558, 「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」(東京夕刊), 全国版の社会面では県警から発表された事実が反映され「19歳の少年逮捕へ」という見出しに修正されたほか、千葉市以西に配達された朝刊でも朝刊段階で「事件はSの単独犯」という内容に修正された, 社会部長・稲田幸男は「両親の名前を書けば生き残った長女Bが特定されてしまう虞があったため家族全員を匿名とした。社内では『実名報道の大原則に反する』と反対意見も出たが、今回の判断はそれを侵すものではないと考えている」と説明した, 編集局次長・橋本直はBの実名報道に関して「第一報の段階ではBも千葉県警から嫌疑を掛けられていた状況だったため匿名にしたが、7日の朝刊作成段階で『Bは完全な被害者』と判明したため、それを明確に示すためには実名報道の方が適切と判断した。しかし被害者にとっては陰惨で気の毒な事件であり一刻も忘れたいことだろう。今後の報道の方法は考えたい」と説明した, 殺害の動機 - 現場で遭遇した被害者から金品を奪うため(居直り強盗)・犯行の発覚を阻止するため, 地元の高校を卒業後に隣町の男性と恋愛結婚したが、その前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため、長女Bを出産した直後に(当時20歳で)離婚した, 1992年2月11日4時30分ごろ、被告人Sが東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した容疑(強姦致傷罪), 1992年2月25日、被告人Sが市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した容疑(恐喝罪), 1992年2月27日、被告人Sが埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った容疑(傷害・窃盗罪), 被告人Sの母親Yは各余罪の被害者に対しいずれも誠意ある謝罪をした上で、所有するマンションを売却するなど可能な限りの方法で資金を作り以下のように示談をした, 1991年10月19日の江戸川区内における傷害事件の被害者男性に対し、示談金45万円を支払って示談が成立した, 1992年2月11日未明の中野区内における傷害・強姦事件の被害者女性に対し、示談金155万8,475円を支払い示談を成立させた, 1992年2月25日未明の市川市内における傷害・恐喝事件の被害者男性に対しては示談成立に至らなかったが、治療費・休業損・慰謝料の内金として50万円を現金書留郵便で送付した, 被害者Bとの接触は拒否されたが、A一家の菩提寺へ被害者の墓参りに訪れたほか、供養のための喜捨をするなどして被害者の冥福を祈った, 少年法で18歳未満の少年への死刑適用は禁じられているが、被告人Sは犯行当時19歳で18歳とわずか1年1か月しか違わない, 事件は計画的ではなく、被告人Sは不幸な生育環境にあり当時精神未発達の少年だったが深く反省しており、矯正する可能性が高い, 祖母C(確定的殺意・強盗殺人罪)および妹E(確定的殺意・殺人罪) - 殺意は未必である, 母親D(未必の殺意・強盗殺人罪)および父親A(確定的殺意・強盗殺人罪) - 殺意はなく強盗致死罪が成立するに過ぎない, 被害者の傷の深さ・犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意認定は正当である, 弁護人側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究はあくまで「性格的な傾向を見る」にとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない, 「自分より強い者には衝動を抑制し弱い者には抑制しない」など自己の攻撃行動を区別している, 犯行動機・殺害方法・殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大で、特に幼くして命を奪われた幼女(E)には深い哀れみを禁じ得ない, 「千葉地裁・東京高裁と二度の死刑判決を受けたことで『生き恥を晒し続けて自分の家族にさえ迷惑をかけるくらいなら早く死んで消えてなくなりたい。早く生まれ変わって新しくやり直す方が楽だろう』と自暴自棄な考えに陥っていたころもあったが、自分を見た多くの人から『生きて償うべきだ』と言われたことで『生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けよう』と改めて決意した。最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」, 「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば『この世に生まれてきたことに少しでも意味があった』と言えるかもしれない」, 死刑囚Sは事件現場を長時間にわたって離れており(被害者Bを連れ出していた間)、その間に第三者が関与した可能性がある点, 被害者の遺体に残された刺し傷の場所・各被害者の死因などから、被害者4人全員に対する殺意の有無, 弁護団の主張する「重要参考人」が行方不明となっているため、弁護団は「死刑囚Sとは別にその人物が事件に関与している可能性がある」として行方を捜していた, 『週刊新潮』1992年3月19日号(3月12日発売)は「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で「被疑者Sの中学時代の顔写真」「Sが事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真」を掲載した, また『週刊新潮』は2001年12月13日号(同年12月6日発売)でも被告人Sの死刑が確定することとなった上告審判決について, 『FOCUS』1992年3月20日号はSの実名に加え、Sが千葉地検に送検される際の写真(当時の『FOCUS』記者・, 「少年法が制定された当時と1992年現在では『肉体的・精神的ともに社会からの刺激が多い』という点で『少年』の概念が変わっているにも拘らず、『旧態依然とした少年法に従って20歳以下なら一様に実名を伏せる』ことは好ましくない。犯行そのものも帰宅した家族を次々と殺害するなど凶悪で、少年法で保護すべき範囲を逸脱している。実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースで、(ライバル誌の『, 「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されており、少年による凶悪事件が増加している現在において『20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる』現行の少年法は時代遅れであり、それを問題提起する意味で実名報道した」, 「残された少女Bのために毎日祈り・お詫びの言葉をつぶやいてみても何にもならないどころか、自分勝手で独善的この上ない行為だ。加害者側の自分がいくら熱心に経文を唱えようとも結局は『自分自身が自己満足するための儀式』でしかない」, 「最高裁で死刑判決(上告棄却)を受けて死刑囚となっても当分は生かされていることになるが、死刑とは『文字通り死ぬことで刑になる』から、刑務所で受ける懲役刑とは違い、労役などで罪を償うこともできず、ただ鉄格子の中で過ごすだけだ。確定から何年か過ぎて平静を取り戻したころにいつか必ず死刑執行の日が来るが、それが決まっているのに毎日死の足音に怯えながら暮らさなくてはならない。想像するのも嫌な生活だ」, 「これから先は何年も外界から一切遮断された獄中で誰とも会えず、希望も抱けずに平静を保って生きていく自信がないし、『死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのか』もわからない。『死ぬことが怖くない』と言えば嘘になるが、それ以上に先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖い」, また「手紙の中で殺害場面が記された箇所に入った途端、それまで整然としていた筆跡が『まるで別人が書いたかのように』突然大きく乱れていた。殺害現場を書くこと・当時の自分を直視するのが怖いのか?」と質問されると「みっともない」と返したが、「『あのような事件を引き起こした自分が人間としてみっともない』ということか?」という質問に対しては曖昧な返答になったため、「『みっともないことをした自分を直視するのが嫌だ』ということになる。『みっともない自分』を正面から捉えないで反省しても仕方ないだろう」と指摘された, 「自分の人生を振り返って何か言いたいことはあるか?」という質問には「それまでのことをすべてをなかったことにしてほしい。自分という人間は『存在そのものが最初からこの世にいなかった』ことにできれば一番いい」と答えたが、永瀬 (2004) はSのこの言葉に関して「この言葉を耳にして強い脱力感に襲われた。Sはこの期に及んで『自分の人生の全てをなかったことにしたい』と口にするが、その真意は理解不能だ。Sが抱える心の闇は私の想像よりはるかに大きい」と述べた, 板倉は第一審で死刑判決が言い渡された際にも『千葉日報』記者の取材に対し「1人で次々と4人を殺害した残虐性を考慮すれば犯行当時19歳の少年だったとしても死刑はやむを得ない。もしこれが死刑でなければ最高裁の基準(永山基準)を無視することになる」と指摘している, 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した犯行当時19歳の少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。, 犯行当時、被告人に是非を弁別する能力及び是非の弁別に従って行動を抑制する能力が著しく減退し、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情はないとして、被告人に完全な責任能力を認めた事例。, 被告人が殴打暴行を加えて傷害を負わせた後、俄に欲情を催して被害者と強いて姦淫したものであるときは、強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪とその後の強姦罪の2罪が成立する。, 強盗殺人行為終了後、新たな決意で別の機会に他人を殺害したときは、たとえ時間的に先の強盗殺人に接近しその犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても、別個独立の殺人罪が成立する。, 被告人の隙を見て逃げ出した被害者の車両内から各別名義の物件を一括窃取する行為は1個の窃盗罪に当たる。, 暴力団員を装い金員及び免許証の交付を要求し、応じなければ、更に身体に危害を加えるべき勢威を示して畏怖させ、自動車運転免許証の交付を受けた場合は、恐喝罪が成立する。, 犯行当時少年であった被告人が、およそ5カ月間に、3名に対する強盗殺人、1名に対する殺人のほか、強盗強姦、強姦致傷、強姦、傷害、恐喝、窃盗を連続して行った事案において、犯行当時の被告人に完全責任能力を認めて、いずれの犯罪についても有罪とし、死刑を言い渡した事例。, 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した、犯行当時少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。, 被告人の尿酸血中濃度や胎児期における大量の黄体ホルモンの投与あるいは被告人の脳波の微細な異常等と被告人の過度の攻撃性との関連性を否定し被告人に完全責任能力を認めた事例。, いったん強盗殺人の行為を終了したあと、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近し、その犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても別個独立の殺人罪を構成するとされた事例。, 判決内容:死刑・折り畳み式ナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)を没収(求刑:死刑 / 被告人・弁護人側控訴), 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した少年に対して死刑を言い渡した第一審判決に対する控訴が棄却された事例。, 傷害・強姦致傷・強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗被告事件について、犯行当時少年の被告人につき死刑を言い渡した原判決に対し、被告人は、爆発型精神病質者、類てんかん病質者であって、胎児期に施用を受けた多量の黄体ホルモンの影響等により生来的に脳を過剰に男性化され攻撃的になっていたことを総合して考慮すると、各犯行当時に心神耗弱状態にあったとして、控訴をした事案において、被告人のために酌むべき事情を総合して十分に考慮し、死刑がやむを得ない場合における究極の刑罰であることに思いをいたしても、その犯した罪の重大性に鑑みると、被告人を死刑に処するのは誠にやむを得ないと判断するから、被告人を死刑に処した原判決の量刑が重すぎて不当であるとは言えないとして、控訴を棄却した事例。, 胎児期に流産防止のため黄体ホルモンの投与を受けた結果、脳の男性化を生じたことなどを理由とする心神耗弱の主張を排斥した原判決が維持された事例。, 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した犯行時少年の被告人につき死刑を言渡した第1審判決に対する控訴が棄却された事例。, 被告人が、B方に赴き、在宅していたBの祖母を殺害し、その後帰宅したBの母と父を順次柳刃包丁で殺害した上、現金、預金通帳等を強取するなどした事案で、被告人は、上記強盗の最中、Bを強姦するなどしたほか、傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗を繰り返しているところ、その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責はまことに重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないとし、上告を棄却した事例。, 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28075105, 加害者Sの実名・中学卒業時の顔写真や「Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンション」の写真が掲載された。, 加害者Sの実名・フードを被されて送検される際のSの写真に加えて被害者一家のうち男性A・妻Dの顔写真を掲載した。送検時のSの写真は当時『FOCUS』記者の, 加害者Sの実名を掲載した。内容は後述の永瀬の著書『19歳の結末』『19歳』の大元となっている。, 加害者Sの実名・中学卒業時の顔写真に加えてSと接見を重ねた永瀬(当時・「祝康成」名義)のコメントが掲載された。, 著者の永瀬が加害者Sとの面会や事件当事者たち(Sの家族・Sと結婚したフィリピン人女性の家族・, 加害者Sの死刑確定後に『19歳の結末』を改題・文庫化した書籍。文庫化に当たり2000年の『19歳の結末』刊行 - 2001年の上告審判決までの経緯を新たに書き下ろし、その内容を第9章「死刑」として加えた。, Sの実名を掲載した。なおルビはイニシャルで「S・M」となっているが、正しくは「S・T」である。, 2006年版ではSの実名を掲載したが、2016年版および2017年版では「犯行当時少年で実名掲載の了承が得られていない」としてイニシャル表記されたものの、名前の読みを誤り「S・M」と表記されていた。死刑執行後初めて刊行された2018年版では正しいイニシャル「S・T」と表記されている。.
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