白瀬隊は南極棚氷の上を犬橇(いぬぞり)でひたすら南極点をめざして走り、糧欠乏と人と犬との疲労による限界で、ついに進おのをあきらめた。視野にはいる全地域を大和雪原(やまとゆきはら)と命名したのは、明治四十五(一九一二)年一月二十八日のことだ。 前年の十二月十四日にノ� 探検隊のために3つの帆と補助用蒸気エンジンを積んだ木造船「ディスカバリー探検隊」が、1901年8月に南極大陸に向け遠征に出発しました。 この時、隊長となったのはイギリス海軍軍人、ロバート・ス … こんにちわ(^^)かわせみです。 本日はイギリスの探検家のお話です。 いつもクドクドとした言い回しですので、 今回はさっさと本編に移ります(^^ゞ イギリスの南極探検家スコットは悲運だった?状況や条件なども調査しました! イギリスの南極探検家スコットは悲運だった? 未踏の地への探検と聞くと、期待に胸躍る人もおおいのではないか。 しかし、そこには大きな危険がつきまとうのも常。 今回紹介する、19世紀最大の遭難と言われる北極航路遠征隊(フランクリン遠征隊)の悲劇も、それを象徴する出来事だ。 'R. フランクリン遠征(フランクリンえんせい、英: Franklin's expedition)は、1845年にイングランドを出発したイギリスの北極海探検航海であり、ジョン・フランクリン海軍大佐が指揮していた。フランクリンはイギリス海軍の士官であり、経験を積んだ探検家だった。過去に3回北極海に遠征しており、その2回目と3回目は隊長を務めていた。4回目がこの遠征であり、引き受けたときは59歳になっていた。遠征の目的は、カナダ北極諸島を通ってヨーロッパとアジアを結ぶ北西航路の中で、まだ航海されていない部分を横断することだった。しかし遠征の初期に幾つかの問題が発生した後、遠征隊の2隻の船がカナダ北極圏キングウィリアム島に近いビクトリア海峡で、氷に閉ざされてしまい、フランクリンを含む隊員129名全員が失踪した。, 遠征隊がヨーロッパ人によって最後に視認されたのは1845年だった。イングランドの海軍本部はフランクリンの妻ジェインらに懇願されて、1848年、行方不明となっていた遠征隊を捜索するための部隊を出発させた。フランクリンの名声が高かったこと、および海軍本部が遠征隊の発見者に報酬を出すと発表したこともあって、多くの者達が捜索に加わり、1850年のある時点ではイギリス船11隻、アメリカ船2隻が関わっていた。これら船舶の幾らかは、乗組員3人の墓など、遠征隊の遺物が初めて発見されたビーチー島の東海岸沖に集中した。1854年、探検家ジョン・レイが犬ぞりでキングウィリアム島南東の海岸近くを調査しているときに、イヌイットからフランクリン隊の遺物を取得し、多くの白人が氷上の行軍中に飢え死に、仲間の肉を食べた跡まであったという末路についての話を聞いた。1859年にフランシス・レオポルド・マクリントックが率いた調査により、フランクリン遠征隊の隊員が船を捨てるに至った詳細を記したメモをキングウィリアム島で発見した。19世紀の残り期間も調査は続けられた。, 1981年、アルバータ大学人類学教授オーウェン・ビーティが率いた科学者チームが、ビーチー島とキングウィリアム島でフランクリン遠征隊の隊員が残した墓、遺体など物的証拠に関する一連の科学的研究を始めた。ビーチー島で見つかった墓の隊員の死因は肺炎で、おそらくは結核で死んだ可能性が強く、さらに船の食料倉庫に収められていた缶詰のはんだ付けがまずかったために、鉛中毒で健康を悪化させた可能性があることも分かった。しかしその後、この鉛の出どころは缶詰の食料ではなく、遠征隊の船に取り付けられた水の蒸留装置だったことが示唆された[2]。キングウィリアム島で見つかった人骨の切断面からは、人肉食を行った痕跡がみられた。研究の全ての結果を合わせると、低体温症、飢え、鉛中毒、壊血病などの病気、さらには適切な衣類や栄養が無いままに過酷な環境に曝されたことで、隊員全員の死に繋がったことが推測された。, ヴィクトリア期のマスコミは、フランクリンの遠征隊が失敗し、人肉食の話が出てきたにも拘わらず、フランクリンを英雄扱いしていた。フランクリンに関する歌が書かれ、その彫像が生まれ故郷のロンドンとタスマニアに建てられ、北西航路の発見者にされた。フランクリン隊の話は歌、詩、短編小説、小説、さらにはテレビのドキュメンタリー番組など多くの作品の対象とされてきた。, ヨーロッパ人が、ヨーロッパからアジアまで最短距離(大圏航路)で結ぶ海の近道を探すのは、1492年のクリストファー・コロンブスの航海が始まりであり、その後は19世紀半ばまで、主にイングランドから一連の探検隊が極地を通る最短の海路(北西航路、北東航路)を探した。これらの航海はそれぞれ成功の程度は異なるものの、西半球、特に北アメリカについてヨーロッパ人の地理的知識を増やしていった。その知識が深まるに連れて、次第にカナダ北極圏に関心が向くようになった。16世紀から17世紀に北アメリカについて地理的な発見をした航海者達は、マーティン・フロビッシャー、ジョン・デイヴィス、ヘンリー・ハドソン、ウィリアム・バフィンなどがいた。1670年、法人化したハドソン湾会社がカナダ海岸と内陸、および北極海をさらに探検した。18世紀の探検家としては、ジェイムズ・ナイト、クリストファー・ミドルトン、サミュエル・ハーン、ジェームズ・クック、アレグザンダー・マッケンジー、ジョージ・バンクーバーがいた。1800年までに最終的にわかったのは、太平洋と大西洋の間の温暖な緯度の範囲内はすべて大陸でふさがれており、船が航行できるような北西航路はこの範囲内には無いということだった[3]。, 1804年、ジョン・バロウ卿が海軍本部副大臣となり、その職を1845年まで長期にわたって務めた。バロウはイギリス海軍を突いて、カナダの北の北西航路、さらには北極点への航路を極めさせようとした。その後の40年間の探検家としては、ジョン・ロス、デイビッド・ブキャン、ウィリアム・エドワード・パリー、フレデリック・ウィリアム・ビーチー、ジェイムズ・クラーク・ロス、ジョージ・バック、ピーター・ウォーレン・ディーズ、トマス・シンプソン等がカナダ北極圏で意義ある航海を行った。これら探検家の中にジョン・フランクリンがいた。1818年、ドロシーとトレントで北極を目指した遠征では副指揮官となり、1819年から1822年と1825年から1827年の2回、陸路カナダの北極海沿岸に進んだ遠征では隊長だった[4]。1845年までに、それまでの遠征隊が発見したこと全てから、カナダ北極圏で未踏の地域は約181,300 km2の四角形が残されているだけになっていた[5]。この年にフランクリンが航海することになったのがこの未踏領域であり、ランカスター海峡から西に進み、その後は氷、陸、その他障害物が許す限り西と南に進んで、北西航路を完成させる意図があった。航行距離は約1,670 km だった[6]。, バロウはこの時82歳であり、その経歴の終わりに近づいていた。北西航路を完成させる遠征の指揮官を誰にすべきか検討していたが、おそらくバロウは北極点周辺の海には氷がない開けた水面が広がっているという理論を信じており、それを見つけることも視野にあった。パリーがバロウの第1の選択肢であったが、北極海に飽きてきており、丁重に辞退した[7]。第2の候補者はジェイムズ・クラーク・ロスだったが、ロスは新しい妻に北極には行かないと約束していたのでやはり辞退した[7]。3番目の候補はジェイムズ・フィッツジェイムズであり、その若さ故に海軍本部が却下した[7]。バロウはジョージ・バックを検討したが、バックはあまりに理屈っぽいと考えた[7]。フランシス・クロージャー(英語版)も候補だった可能性があったが、生まれが卑しいうえにアイルランド人であり、これが彼にとって不利だった[7]。バロウの指名先は戸惑いながらも59歳のフランクリンに落ち着くことになった[7]。遠征隊はHMSエレバスとテラーの2隻の船で構成され、どちらもジェイムズ・クラーク・ロスが南極で使ったことがあった。フィッツジェイムスがエレバスの艦長となり、1841年から1844年の南極遠征でロスと共にテラーを指揮したクロージャーが、遠征隊の執行士官、かつテラー艦長に指名された。フランクリンは1845年2月7日に遠征隊長に指名され、5月5日に公式指示書を受け取った[8]。, 積載量378トン(ビルダーズ・オールド・メジャメント)のエレバスと、同331トンのテラーは、頑丈に造られており、最新式の装備を備えていた[9]。エレバスの蒸気機関はロンドン・グリニッジ鉄道の、テラーの蒸気機関はおそらくロンドン・バーミンガム鉄道の製造だった。これらの機関により船は独力で時速7.4 km(4ノット)で航海できた[10]。その他の先進技術としては、船首が鉄製の重いビームと板で補強されており、乗組員のためには室内スチーム暖房が付き、スクリューのプロペラや鉄製梯子は損傷防止のために覆いの中に退きこむことを可能とし、船の図書室には1,000冊以上の図書が収められ、3年間は持つ保存食あるいは缶詰食料が積まれた[11]。この缶詰は安売りの提供者スティーブン・ゴールドナーが納めており、フランクリン隊が出発するちょうど7週間前の4月1日に注文を受けていた[12]。ゴールドナーは大急ぎで注文された8,000個の缶詰を作ったが、後の検証では鉛のハンダが「厚く杜撰に施されており、溶けた蝋燭の蝋のように缶の内部表面に漏れていた」ことが分かった[13]。, 乗組員の大半はイギリス人であり、その多くは北イングランド人、少数がアイルランド人とスコットランド人だった。フランクリンとクロージャーを除けば、北極海に慣れた士官は軍医補1人とアイスマスター2人のみだった[14]。, 遠征隊は1845年5月19日朝、イングランドのテムズ川河口グリーンハイスを出港した。士官は24人、乗組員110人、合計134人だった。北スコットランドの沖合オークニー諸島で短期間停泊し、そこからHMSラトラーと輸送船バーレット・ジュニアを伴って、グリーンランドに向かった[15]。, グリーンランドの西岸、ディスコ湾のホエールフィッシュ島で、輸送船が運んできた10頭の雄牛を殺して、新鮮な肉を補充した。物資はエレバスとテラーに移され、乗組員たちは故郷に送る最後の手紙を書いた。この船上で書かれた手紙では、フランクリンが罵倒と酔っぱらいを如何に禁じていたかが書かれていた[16]。遠征隊が最後に出発する前に、5人の者が任務を解かれ、ラトラーとバーレット・ジュニアで国に戻ったので、総勢は129人になった。捕鯨船プリンス・オブ・ウェールズ号のダネット船長と、同じくエンタープライズ号のロバート・マーティン船長が、7月下旬にバフィン湾でランカスター海峡を通るための好条件になるのを待っていたエレバスとテラーに出逢っており、ヨーロッパ人が遠征隊を目撃した最後の機会となった[17]。, それから150年間以上にわたり、他の遠征隊、探検家、科学者、果ては好事家たちが、遠征隊に何が起こったか、情報の断片を継ぎ合せようとしてきた。, 船を放棄するまでの航路については、キングウィリアム島に残されたフィッツジェイムズとクロージャーの書簡の記述が全てである。いわく「ウェリントン海峡を北緯77度まで北上し、コーンウォリス島西岸に沿いて戻りし後、北緯74度43分28秒西経90度39分15秒ビーチー島にて1846年から1847年を越冬せり。」「ここ(北緯69度37分42秒西経98度41分)より北北西5リーグの地点にて1846年9月12日より氷に囲まれたるにより、1848年4月22日エレバス号ならびにテラー号を放棄せり。」, つまり遠征隊は、コーンウォリス島を北に迂回せんと欲したのか他の意図があったのかは分からないが、コーンウォリス島の東岸から永久流氷の限界に近い北緯77度まで北上した。しかし何らかの理由で引き返し、コーンウォリス島を西岸から回り込み、ビーチー島で1845年の冬を宿営した。そこで隊員3人が死んで埋葬された。遠征隊が再び出航したのは、3人目の隊員が死亡した1846年4月30日以降ということになる。その後南下しプリンスオブウェールズ島を過ぎ(東岸のピール海峡を通ったのか、西岸のマクリントック海峡を通ったのかは記述がない。研究者は例外なくピール海峡と考えている。)、キングウィリアム島を西に迂回せんと欲したが、1846年9月12日に島の北西海上で氷に囲まれた。船が動けないままフランクリンは1847年6月11日に死亡した。その夏は結局流氷が動かず、もう一年越冬するはめになり、翌1848年4月22日に一行は船を放棄して陸路カナダ本土のバック川(当時はグレート・フィッシュ川とも)方向に向かうこととなった。この時点で何らかの異常な事象により士官9人と隊員15人が死亡しており、遠征隊は2割近い人員を失っていた。, 確かな記録として確認できるのはここまでであり、南に向かった遠征隊の生き残りの足跡は明らかでない。ただ、イヌイットの目撃証言・遺骨や遺物がキングウィリアム島西岸・南岸・カナダ本土に渡ったアデレード半島に死屍累々と残っており、世界の探検史上例を見ない死の行軍の断片を示している。遠征隊の最期の地がどこであったかは不明だが、チャントリー湾より南に到達したことを示す証拠は発見されていない。西洋文明の最も近い前哨からは数百マイルも離れていた[18]。, エレバス号の残骸は2014年に、テラー号の残骸は2016年に発見された。#難破船調査(1997年–2014年)参照。, フランクリンから何の便りも無いまま2年間が過ぎ、人々が心配するようになり、フランクリン夫人さらにはイギリスの議会議員や新聞が海軍本部に捜索隊を送るよう促すことになった。これに応じて海軍本部は1848年春には実施する3方向の捜索計画を立てた。1つはジョン・リチャードソンとジョン・レイの指揮する陸路からの救援隊であり、マッケンジー川を下り、カナダ北極圏海岸に向かうものだった。海上からは2つの隊が向かうことになった。1つはランカスター海峡を抜けてカナダ北極圏多島海に入るものであり、もう1つは太平洋側から向かうものだった[19]。さらに海軍本部は「ジョン・フランクリン卿の指揮下にある探検船の乗組員を助けることになった、如何なる国の如何なる隊にも」2万ポンド(2014年換算で1,752,100ポンド)を賞金として提供すると発表した[20]。この3方面の隊が失敗した後も、北極海に対するイギリス国民の興味関心は増加し、「フランクリン隊を発見することは十字軍に匹敵する」ほどまでになった[21]。フランクリン夫人が失踪した夫を探すのを歌った『フランクリン夫人の嘆き』と題するバラードが人気を得た[22][23]。, 捜索には多くの者が加わった。1850年、イギリス船11隻とアメリカ船2隻がカナダの北極海に向かった。その中にはHMSブレッドアルベーンとその姉妹艦HMSフェニックスも入っていた[24]。幾隻かはビーチー島の東海岸に集まり、1845年から1846年の冬季宿営地の跡と、ジョン・ショー・トーリントン[25]、ジョン・ハートネル、ウィリアム・ブレインの墓を含む、フランクリン遠征隊の遺物を初めて発見した。この場所でフランクリン遠征隊からの伝言は見つからなかった[26][27]。1851年春、複数の船の乗客と乗組員がニューファンドランド島沖で巨大な氷山を視認したが、そこに2隻の船が、1つは直立したまま、1つは転覆しかかって捉えられているのが観測された[28]。これらの船を近くから検証はできなかった。これらがエレバスとテラーだった可能性があると言われたが、両船が発見された現在では放棄された捕鯨船かなにかであった事が確定している。, 1852年、エドワード・ベルチャーがジョン・フランクリン卿を探す政府北極遠征隊の指揮を任された。これも不成功に終わった。ベルチャーはその部下の人気を得られず、特に北極海の航海では不幸であり、氷海を航行する艦の指揮には全く向いていなかった。遠征隊5艦の内4艦(HMSレゾリュート、パイオニア、アシスタンス、インターピッド[29])を流氷の海で放棄することになり、ベルチャーは軍法会議に掛けられたが、無罪になった。その中のHMSレゾリュートのみは、後にアメリカの捕鯨船によって無傷で回収されイギリスに返還された。その船に使われていた木材を使って3つの机が作られ、うち一つはイギリス女王から友好の印としてアメリカ合衆国大統領に贈られた。これが、ホワイトハウスのウエストウイングの大統領執務室・オーバルオフィスにあり、大統領が執務する「レゾリュート・デスク(英語版)」と呼ばれる机である。, 1854年、ジョン・レイがハドソン湾会社のためにブーシア半島を測量しているときに、失踪した隊の遺物を発見した。1854年4月21日、レイがペリーベイ近くで一人のイヌーク族に会い、35人ないし40人の白人一行がバック川河口近くで飢えて死んだということを聞いた。他のイヌイットもこの話は本当だと確認し、船員たちの遺体に人肉食の跡があったことも報告した。イヌイット達は、フランクリンとその隊員に属していたと同定された多くの物を示した。特にレイはペリーベイのイヌイットから銀のフォークとスプーン数本を持ち帰り、それが後にエレバスに乗っていたフィッツジェイムズ、クロージャー、フランクリン、シップメイトのロバート・オスマー・サージェントに属していた物と判明した。レイの報告書が海軍本部に送られ、1854年10月にはハドソン湾会社からバック川を下ってフランクリンとその隊員の他の遺物を探す遠征隊を派遣するよう要請された[30][31]。, 次に重要な発見は、ジェイムズ・アンダーソンとハドソン湾会社の職員ジェイムズ・スチュアートであり、カヌーでバック川河口まで北上した。1855年7月、イヌイットの1隊が、一群の「カルナート」(qallunaat, イヌクティトゥト語で白人)が海岸で飢えて死んだと告げた[30]。8月、アンダーソンとスチュアートは、バック川が海に入る所にあるシャントリー入り江のモントリオール島でエレバスと刻印のある木片を見つけ、「スタンレー氏」(エレバスの船医)と刻まれている木片も見つけた[30]。, レイやアンダーソンの発見にも拘わらず、海軍本部は独自の捜索を計画しなかった。イギリスは1854年3月31日付で公式に乗組員が公務中に死亡したと判断した[32]。フランクリン夫人は政府に新たな捜索を行う資金手当てをさせることができず、私費でフランシス・レオポルド・マクリントックの指揮による遠征隊を発注した。この遠征船は蒸気駆動スクーナーのフォックスであり、公募で購入され、1857年7月2日にアバディーンを出港した。, 1859年4月、フォックスからキングウィリアム島を捜索するための橇部隊が発進した。5月5日、イギリス海軍のウィリアム・ホブソン大尉が指揮する隊が、クロージャーとフィッツジェイムズによって残されたケアンにある文書を発見した[33]。これはイギリス海軍の記録用用紙で、2つのメッセージがあった。用紙の記入欄に書かれた最初のメッセージは1847年5月28日付であり、この時点でエレバスとテラーはキングウィリアム島北西岸沖の流氷の中で越冬していること、前年にビーチー島で越冬する前にはコーンウォリス島沖を北上して北緯77度にまで達したものの島を周回してもどってきたことが書かれていた。「遠征隊を指揮するジョン・フランクリン卿。『全て順調』」と記されていた[34]。2つ目のメッセージは1848年4月25日の日付で、同じ用紙の余白にびっしりと書かれており、エレバスとテラーが1年半氷の中に閉じ込められた末、乗組員は4月22日に船を放棄したこと、1847年6月11日に死んだフランクリンを含め、その時点で24人の士官と乗組員が死んでいたことが書かれていた。フランクリンが死んだのは最初のメッセージが書かれてから僅か2週間後だった。クロージャーが遠征隊を指揮しており、残り105名が翌日に出発して、南のバック川方面に向かうと記されていた[35]。このメモには重大な誤りがあった。最も重要なのはビーチー島で冬季宿営した年が、1845年から1846年ではなく、1846年から1847年とされていたことだった[36]。, マクリントック遠征隊はキングウィリアム島南岸で人骨も発見した。まだ衣服が残っており、それを探すと幾らかの紙片が見つかった。それはHMSテラーの前檣楼キャプテンとなっていた上等兵曹ヘンリー・ペグラー(1808年生まれ)の海員身分証明書であった。しかしその制服は船のスチュワードのものであり、その遺体はHMSテラーの銃器室スチュワードのトマス・アーミテージのものである可能性があり、シップメイトのペグラーの書類を持っていたと考えられた[37]。島の西端にある別の場所では、ホブソンがフランクリン遠征隊の2つの骸骨と遺物を載せた救命ボートを発見した。このボートの中には、大量の放棄された装備があり、長靴、絹のハンカチ、香水入り石鹸、スポンジ、スリッパ、櫛、多くの本が見つかり、本の中にはオリヴァー・ゴールドスミスの小説『ウェークフィールドの牧師』が入っていた。マクリントックは遠征隊の悲惨な結末についてイヌイットから証言も取得した[38]。, 1860年から1869年の間にチャールズ・フランシス・ホールが2回の遠征を行った。ホールはバフィン島のフロビッシャー湾近く、後にはカナダ本土のレパルス湾でイヌイットの中で生活した人物であった。キングウィリアム島の南岸でキャンプ地、墓、遺物を発見したが、フランクリン遠征隊の者はイヌイットの中で生き残っていないと考えた。フランクリン隊は全員死んだと結論付けたが、公式遠征記録がおそらくどこかに作られた石積みケアンの下から見つかるだろうと考えていた[39]。イヌイットのガイドであるエビアビングやトゥクーリトの助けを得て、ホールは数百ページにもなるイヌイットの証言を集めた。それらの中にはフランクリンの船を訪れた証言や、キングウィリアム島南岸のワシントン湾近くで白人の1隊に遭遇したという証言などが含まれていた。1990年代、デイビッド・C・ウッドマンがこの証言を詳しく調査し、『フランクリン・ミステリーの解明』(1992年)と『我々の中の異邦人』(1995年)と題する2冊の書を著した。その中では遠征隊の最後の数か月を再構築している。, 失われた遠征記録文書を見つけるという期待から、アメリカ陸軍のフレデリック・シュワトカが1878年から1880年に遠征隊を組織して島に行った。ハドソン湾をスクーナーのヨーセンで移動し、ホールを援助したイヌイットを含むチームを編成して、徒歩と犬ぞりで北進を続け、イヌイットの話を聞き、フランクリン遠征隊の足跡が分かっている場所や可能性のある場所を訪れ、キングウィリアム島で越冬した。シュワトカは探していた文書を見つけられなかったが、1880年にアメリカ地理学会がその栄誉を称えるために開催した晩餐会のスピーチで、自分の遠征隊は11か月と4日、距離にして4,360 km と、「時間と距離で最長の犬ぞりによる旅を行った」[40]と明かし、白人がイヌイットと同じ食料に頼ったことでは北極圏初の遠征であり、フランクリンの記録が失われたことは「合理的な疑いが及ばない」ものであることを結論付けた[40]。シュワトカの遠征隊はアデレード半島の飢えの入江と呼ばれる場所から南では、フランクリン遠征隊の痕跡を見つけられなかった。そこはクロージャーが言っていた目標であるバック川から遥か北でありグレートスレーブ湖の最も近い西洋人による前哨からは数百マイル離れていた。, なお、ウッドマンは、1852年から1858年の間にクロージャーともう1人の隊員が、約400 km 南のベイカー湖地域にいたというイヌイットの報告について記している。そこは、1948年にファーリー・モワットが「通常のエスキモーが作ったものではない大変古いケアン」を発見し、その中には硬い木材を蟻継手で組み立てた箱の断片が見つかったというところだった[41]。結局、ウッドマンはイヌイットの報告の情報源を確認することはできず、モワットが発見したケアンを作った者も判明しなかった。, 1981年6月、アルバータ大学の人類学教授オーウェン・ビーティが、1845年-1848年フランクリン遠征隊法医人類学プロジェクトを開始し、ビーティとその研究者と現場助手のチームが、エドモントンからキングウィリアム島に移動し、フランクリン隊が132年前にしたように島の西岸を移動した。このプロジェクトは現代の法医学を使って、失われた129人の死因を確定するために人工物や人骨の遺物を見つけることを期待していた[42]。, このチームは19世紀ヨーロッパに関連する考古学的人工物と、関節で切り離された損傷を受けていない遺体の一部を発見したが、ビーティはより多くの遺物が発見されなかったことに失望した[43]。フランクリン隊員の骨を調べると、壊血病の原因であるビタミンC欠乏の場合に見られる孔食やスケーリングが多く見られることに注目した[44]。ビーティはエドモントンに戻ると、北極考古学者ジェイムズ・サベルの調査結果と比較して、骨の様子が人肉食を示唆していることに気付いた[45]。フランクリン隊員の健康と食事について情報を求め、骨の標本をアルバータ土壌食料試験研究所に送って、微量元素分析を依頼すると共に、ふたたびチームを編成してキングウィリアム島を訪れた。分析では隊員の骨に鉛が226 ppm と予想外のレベルで含まれていることがわかり、それは同じ地域のイヌイットの骨から採られた対照実験用標本の26ないし36 ppm と比べると10倍だった[46]。, 1982年6月、ビーティが編成したチームは、アルバータ大学人類学大学院生ウォルト・コーワル、ブリティッシュコロンビア州サイモンフレーザー大学の考古学と地理学の学生アーン・カールソン、イヌーク族の学生で現場助手のアーシーン・タンジリクであり、キングウィリアム島の西海岸に飛んで、1859年にマクリントック、1878年から1879年にシュワトカがたどった道を再度たどった[47]。この遠征で見つかったのは、マクリントックの「ボートを見つけた場所」近くで6人から14人の遺体と、既製品の滑り止めを付けた長靴の底など人工物であった[48]。, ビーティは1982年にエドモントンに戻ると、1981年に遠征で得た標本の鉛濃度が高かったことを知り、その原因を必死に探った。可能性としてフランクリン遠征隊の缶詰食に使われた鉛のハンダ、内側に鉛製の箔が張られた食料容器、食品着色剤、タバコ製品、ピューター食器、鉛の芯をいれた蝋燭が挙げられた。鉛中毒に壊血病の影響が重なり、隊員にとって致命的なものになった可能性をビーティは疑い始めた。しかし、骨中の鉛濃度は航海期間だけでなく生涯にわたっての摂取量を反映するものであるため、この仮説を検証するためには、残存する柔組織を骨の対照標本として法医学的に分析するしかなかった。ビーティはビーチー島に埋葬されている隊員の墓を調査することに決めた[49]。, ビーティーのチームは法的な許可を得て[50]、1984年8月にビーチー島を訪れ、そこに埋葬されている3人の隊員の検死を行おうとした[51]。検死は、最初に死んだ指導機関員のジョン・トーリントンから始められた。チームはトーリントンの検死を完了し、ジョン・ハートネルの遺体の掘り出しと簡単な調査を行なったが、時間に追われ天候悪化の懸念もあったため、組織と骨の標本を持ってエドモントンに戻った[52]。トーリントンの骨と毛髪の微量元素分析によれば、「鉛中毒により精神的、肉体的に深刻な問題を被った可能性がある」ことを示していた[53]。検死によればトーリントンの直接の死因は肺炎と推定されたが、鉛中毒は寄与因子として挙げられた[54]。, 研究チームは遠征の間に、墓から約1 km 北の地点を訪れ、フランクリン隊が捨てていった数多くの食品缶詰の破片を調べた。ビーティは缶の接合部が鉛で雑にはんだ付けされていることに気付き、食品に鉛が直接触れたと推測した[55][56]。1984年遠征の所見と、ツンドラの永久凍土層によって保存状態の良いトーリントンの138年前の遺体の写真を公開すると、マスコミが幅広く取り上げ、失踪したフランクリン遠征隊に新たな関心を呼び起こした。, 最近の研究は、鉛を摂取させた可能性のある別の原因として、缶詰ではなく船の真水供給装置を示唆している。K・T・H・ファーラーは、「缶詰食で1日3.3 mg の鉛を8か月以上にわたって摂取したとしても、成人に鉛中毒の症状が現れる80 μg/dL の水準まで血中鉛濃度を上げるのは不可能であり、数ヶ月はもちろん3年の期間があったとしても、食品から摂取する鉛で成人の骨中鉛濃度がすべて説明できるという説は支持しがたい」と主張した[57]。さらに、缶詰食は当時のイギリス海軍で広く利用されており、他の場所では缶詰食を利用しても鉛中毒を著しく増やすようなことはなかった。しかし、この遠征隊のみに特有だったのは、補助推進力のために鉄道用の蒸気機関を船に装備したことであり、これは蒸気を得るために推定1トン/時の真水を必要とした。このために船には特有の水の蒸留装置が備えられ、当時使われた材料を考えれば、非常に高濃度の鉛を含有した水を大量に生産した可能性が強い。ウィリアム・バターズビーは、隊員の死体に見られた高濃度の鉛の摂取源として、缶詰食よりもこの蒸留装置がかなり可能性が高いと論じている[2]。, 墓のさらなる調査が1986年に行われた。撮影班がその様子を記録しており、1988年にはドキュメンタリー番組「ノバ」で「氷の中に埋められて(Buried in Ice)」という番組名で放映された[58]。困難な現場の条件下で、ミネソタ大学の放射線科の医師デレク・ノットマンと、放射線技師のラリー・アンダーソンが、検死前に隊員のX線写真を大量に撮影した。極地用被服の専門家バーバラ・シュウィーガーと病理学者のロジャー・エイミーが調査を手伝った[59]。, ビーティとそのチームは、ハートネルの遺体を掘りだそうとした者が以前にもいたことに気付いた。誰かが掘りだそうとした際につるはしが棺桶の木蓋を痛めており、棺の銘板が無くなっていた[60]。後のエドモントンでの研究により、フランクリン救援隊の1つの指揮者エドワード・ベルチャー卿が1852年10月にハートネルの遺骸の掘り出しを命じたが、永久凍土のために途中で止めさせていた。その1か月後、別の救援隊の指揮者エドワード・オーガスタス・イングルフィールドが、掘り出しに成功し、棺の銘板を除去していたことがわかった[61]。, ハートネルの墓とは異なり、兵卒ウィリアム・ブレインの墓はほとんど無傷だった[62]。その遺骸を取り出すと、埋葬があわただしく行われたことを示す兆候が見られた。腕、体、頭は棺の中に注意深く収められておらず、下着の一枚は前後逆に着せられていた[63]。棺はブレインには小さすぎたようで、鼻を押さえつけて蓋が閉められていた。彼の名前と個人的な情報を刻印した大きな銅板が棺の蓋に付けられていた[64]。, 1992年、考古学者と法医人類学者のチームが、キングウィリアム島西岸のある地点を同定し、「NgLj-2」と呼ぶことにした。この場所はレオポルド・マクリントックの言う「ボートを見つけた場所」に関する具体的記述と合っていた。そこを発掘してみると、400近い骨とその欠片、さらに粘土のパイプからボタンや真鍮の部品にいたるまでの人工物が出てきた。遠征隊の法医学者アン・キーンレイサイドがこれらの骨を検査し、鉛の含有量が高いことと、「肉を削ぎ落したとみられる」多くの解体痕があることが分かった。この調査行によって、フランクリン隊の少なくともある集団が最終段階で人肉食を行っていたことが一般に受け入れられるようになった[65]。2015年6月18日、Journal of Osteoarchaeology誌に掲載された論文は、肉を削ぎ落とされたこれらの骨に加え、35本の「骨に破損と"ポット・ポリッシング"――すなわち、沸騰した湯で熱せられた骨の端部が料理鍋にこすれてできる跡があり」、これは「人肉食の最終段階の、飢えた人々が最後の一滴までカロリーと栄養分をしぼりつくすために骨髄を抽出しようとするとき、一般的に見られる」ものである、と結論している[66]。, 1992年、フランクリン遠征隊に関する著作家デイビッド・C・ウッドマンが、磁気探知機の専門家ブラッド・ネルソンの助けを借りて、「プロジェクト・ウートジューリク」を立ち上げ、イヌイットの証言でアデレード半島沖にあるという難破船を捜索した。国家研究委員会やカナダ軍哨戒機の力も借り、敏感な磁気探知機を装備し、グラントポイントの西の広大な範囲を高度200フィート (60 m) から調査した。60以上の強い磁気対象物が発見され、そのうち5つがフランクリン隊の船からと考えられる特性を持っていると見られた。, 1993年、ジョー・マキニス博士とウッドマンは前年の調査で見出した優先度の高い対象物を同定する試みを組織した。チャーターされた航空機が3地点の氷の上に着陸し、穴が明けられ、小さな扇形走査ソナーを使って海底の様子を映像化した。氷の状態が悪く、また不確かな方向指示だったために、正確に穴の位置を確認できず何もみつからなかった。ただしイヌイットの証言による難破船に一致する場所で、これまで分かっていなかった水深が判明した。, 1994年、ウッドマンはリチャード・コリンソン入り江からビクトリーポイントまでの陸地を調査するチームを組織し率いて行った。これは当時のイヌイット猟師スプンガーの証言で「地下貯蔵所」の存在が伝えられていたからだった。10人のチームが10日間を費やし、王立カナダ地理学会が後援し、CBC(カナダ放送協会)の「フォーカス・ノース」が撮影した。地下貯蔵所の跡はみつからなかった。, 1995年、ウッドマン、ジョージ・ホブソン、およびアメリカの冒険家スティーブン・トラフトンが合同で遠征チームを作り、各隊が別々の調査を計画していた。トラフトンの隊はクラレンス島に行って、イヌイットの「白人のケアン」の話を調査したが、何も見つからなかった。ホブソン博士の隊には考古学者のマーガレット・バーチュリも同行し、ケープ・フェリックスの南数マイルで見つかった「サマーキャンプ」を調査し、フランクリン隊の小さな遺物が幾らか見つかった。ウッドマンは2人の仲間を連れて、ウォールベイから南にビクトリーポイントに進みこの海岸沿いで宿営地になった可能性のある場所を全て探した。このときケープ・マリアルイザ近くの未発見だった宿営地で、錆びた缶を僅かに発見した。, 1997年、フランクリン遭難150周年記念の遠征隊を、カナダの映画会社エコ・ノバが立ち上げ、1992年に見つかった磁気に反応する可能性の高い場所をソナーで調査した。考古学者ロバート・グレニアのもと、マーガレット・バーチュリが助手を、ウッドマンが再度遠征隊の歴史家と捜査調整役を務めた。捜索はカナダ沿岸警備隊砕氷船ローリアから行われた。カークウォール島近くの約40平方キロメートルの範囲が捜索されたが、結果が出なかった。分遣隊がオライリー島の北にある入り江の浜で、フランクリン隊の遺物と見られる主に銅板と小さな物体を発見すると、調査はその地域に移されたが、悪天候のために調査を阻まれ、その後遠征を中断した。この遠征に関するドキュメンタリー番組『ミステリーの大洋――失われた艦隊を求めて』をエコ・ノバが制作した。, 2000年、バンクーバー海洋博物館のジェイムズ・デルガドが、王立カナダ騎馬警察の船ナドンを使い、カナダ設標船サイモンフレーザーの支援を得て、北西航路を西向きにセントロッホを抜ける航海を再現した。デルガドは、キングウィリアム島の地域では氷のために遅れることが分かっており、ナドンを調査船として友人のホブソンやウッドマンに提供し、ナドンのコングスバーグ/シムラドSM2000 前方向ソナーを使ってカークウォール島周辺の捜査を継続したが、結果は出なかった。, ウッドマンは3回の遠征で磁気探査機による難破船の位置に関する地図化を継続した。2001年は私費で遠征し、2002年と2004年はアイルランド・カナダ・フランクリン捜索遠征隊となった。これらは橇で曳く磁気探査機を使い、まだ終わっていなかった北部(カークウォール島)地域の捜索を完了し(2001年)、南部のオライリー島地域全体も完了した(2002年と2004年)。優先度の高い磁気反応対象は氷を通したソナーで全て同定された。2002年と2004年、海岸捜査の間にオライリー島北東の小さな入り江で、フランクリン隊の小さな人工物と探検家に特徴的なテントの跡地が見つかった。, 2008年8月、新しい捜索計画が発表された。パークス・カナダの考古学者ロバート・グレニアが筆頭として率いるものだった。この調査は解氷し水面が出た状態でボートからサイドスキャンソーナーを使って行うことが企図された。グレニアは、口承歴史家のドロシー・ハーリー・エバーによって新しく出版されたイヌイットの証言集に基づき新発見を行うことも企図していた。エバーの情報提供者のひとりは、フランクリンの船の沈没地点を王立地理学会島の近くとしており、それ以前の遠征隊がまだ探していない海域だった。この調査には地元イヌイットの歴史家ルイ・カムーカクも加わることになった。カムーカクはそれまでにフランクリン隊の重要な遺物を発見したことがあり、先住民文化を代表することとされた[67]。, 2010年7月25日、1853年のフランクリン隊捜索の間に、氷に閉ざされその後放棄されたHMSインベスティゲーターが、カナダ北極海西部バンクス島北岸沿いのマーシー湾の浅い水域で見つかった。パークス・カナダのチームの報告では、船は良い状態を保っており、水深約11 m の底に直立している[68]。, 2013年8月9日、パークス・カナダから新しい調査計画が発表された[69]。この調査は新しい重要な事実を発見できなかった。, 2014年では、「ビクトリア海峡遠征隊」の旗の下に大掛かりな調査が発表されている[70]。調査の結果、9月8日にキングウィリアム島沖のビクトリア海峡でほぼ原形を残した1隻の船の残骸が発見された。[71]。これはエレバスだと確認され[72]、2016年にはエレバス発見地点よりもさらに北方の海底で、ほぼ無傷の状態で直立しているテラーも発見された[73]。, フランクリン遠征隊法医人類学プロジェクトの現場調査、発掘、墓の掘り出しは10年以上にわたって続いた。キングウィリアム島とビーチー島の人工物および人間の遺骸を調査した結果によれば、ビーチー島の隊員の死因は肺炎[74]と、兵卒ウィリアム・ブレインに発見された脊椎カリエスという証拠が示唆するように、おそらくは結核である可能性が高い[75]。毒物学的調査は寄与因子として鉛中毒を挙げている[76][77]。複数の隊員の骨に見られた刃物による切断跡は、人肉食の証だと見られる[78]。様々な証拠は、寒さと飢え、壊血病、肺炎、結核などの病気といった要因が組み合わさり、さらに鉛中毒で悪化し、フランクリン隊全員を死に至らしめたことを示唆している[79]。, フランクリンがエレバスとテラーをキングウィリアム島の西側を南下させる航路を選んだことで、年によっては短い夏の間でも流氷が消えることのない海域に入ったことになった[80]。これが島の東側であれば、夏は常に流氷が消えるため[80]、後にロアール・アムンセンが北西航路を無事航行した際に利用した。フランクリン遠征隊はビクトリア海峡で二冬の間氷に閉じ込められ、海軍だったので陸の行軍には装備が足りず、あるいは訓練がされていなかった。エレバスとテラーから隊員の幾らかが南に向かったが、氷上を歩く装備も訓練もなかったうえに、北極圏での生存に不必要な多くの物をボートに乗せて引き摺って行った。マクリントックは、「ボートを見つけた場所」にあった救命ボートに大量の重い物品があったことに注目し、「単なる重しの集積、無用のもの、橇を曳く隊員の力を失わせた可能性が強い」ものと考えた[81]。さらに彼らの文明への矜持、現地民への蔑視感情は、早急にイヌイットの救助を求めたり、イヌイットの生活技術を活用する選択を妨げた可能性があった。, フランクリン遠征隊の最も意義ある結果は、失踪したフランクリン隊を探しに出た遠征隊が、それまで未踏だった海岸線数千マイルを地図化したことだった。リチャード・サイリアクスが述べているように、「この遠征隊を失ったことが、成功して帰還した場合よりも多くの地理的知識を加えた可能性がある」[82]。 同時に、海軍本部の北極探検に対する意欲を大いに削ぐことになり、その後のジョージ・ネアズによる北極遠征(1875年-1876年)までかなりの間が空くことになった。ネアズは北極点に軍艦で向かおうとして永久流氷で行く手を阻まれたことから、北極点まで続く「大通り」など無いと宣言したが、これによってイギリス海軍の北極探検に関する歴史的関与が終わることになり、そのような探検が人間の努力と金を注ぎ込む価値があるとイギリス大衆が見ていた時代も終わりを告げた。雑誌「アセネウム」の寄稿者が記しているように、「我々は北極遠征のコストと成果を天秤にかけた結果をしっかり理解し、こんなにも達成困難な事案に大きなリスクを賭ける価値があるのか、達成したとしてもそれほど価値の無いものに立ち向かうのかを問うことになる」としていた[83]。1903年から1905年、ロアール・アムンセンがヨーア号で北西航路の横断航行に成功し、事実上1世紀続いていた北西航路探求の時代を終わらせた。, フランクリン隊が失踪して後の時代に、ヴィクトリア期のマスコミはフランクリンを、北西航路を求めて隊員を率いて行った英雄として扱った。その生まれ故郷にあるフランクリンの彫像には、「ジョン・フランクリン卿、北西航路の発見者」と記されており、ロンドンのアセネウムの外、およびタスマニアにあるフランクリンの彫像にも同様な記述がある。この遠征の運命について、人肉食が発生した可能性も含めて、広く報道され議論されたが、ヴィクトリア期の大衆におけるフランクリンの位置づけは衰えなかった。カナダ人作家ケン・マグーガンによる『運命の航路』や『フランクリン夫人の復讐』の2作など多くのノンフィクション作品に題材を与えてきた。, フランクリンの最後の遠征を取り巻くミステリーは、ノバのテレビ番組『北極航路』の2006年エピソードの主題とされた。2007年のテレビ・ドキュメンタリー番組「ディスカバリーHDシアター」の『フランクリンの失われた遠征』、2008年のカナダのドキュメンタリー映画『パッセージ』もまた然りである。2009年 ITV1の旅行ドキュメンタリーシリーズの『ビリー・コノリー: 世界の果てへの旅』では、プレゼンターのコノリーとそのクルーがビーチー島を訪れ、墓場を撮影し、フランクリン遠征隊の詳細を伝えた。, この失われた遠征隊の記憶のために、カナダのノースウエスト準州の小区分の1つはフランクリン地区と呼ばれていた。高緯度の北極圏諸島を含んでいたこの行政区分は、1999年4月1日にヌナブト準州が新しく創設されたことに伴い、そこに組み入れられて廃止された。, 2009年10月29日、感謝祭の特別礼拝がグリニッジのオールド・ロイヤル・ナーバル・カレッジの礼拝堂で開催され、そこのフランクリンの国家記念碑に再度献納が行われた。この礼拝では、イングランドに送還された唯一の遺骸であり、1873年に記念碑の中に収められていたヘンリー・トマス・ダンダス・ル・ベスコンテ大尉の遺骸を、厳粛に再度埋葬する儀式が行われた[84]。この行事には国際的極圏関係者と招待客が集まり、極圏旅行者、写真家、著作家に、フランクリン、フランシス・ロードン・モイラ・クロージャー大佐とその部下の子孫、彼らを探しに行った者達の家族、すなわちフランシス・レオポルド・マクリントック提督、ジョン・ロス代将、ロバート・マクルアー少将の家族がいた。この行事はジェレミー・フロスト牧師と極圏歴史家のフー・ルイス=ジョーンズ博士が主宰し、ポーラーワールドと在イギリスカナダ高等弁務官事務所が組織つくりをおこなった。カナダ北部の海図作りにおいてイギリスが果たした貢献を祝うものであり、地理的発見を追求して落とされた命を顕彰した。イギリス海軍はニック・ウィルキンソン提督が代表し、祈祷者はウーリッジ司教が指導し、朗読者にはグリニッジ基金の首席執行役ダンカン・ウィルソンからの雄弁な賛辞、さらにカナダ高等弁務官のH・E・ジェイムズ・ライトからの賛辞があった[85][86]。, この北極礼拝に続いてペインテッドホールであった私的なドリンク・レセプションでは、パークス・カナダの海洋考古学者主任のロバート・グレニアが、失踪した遠征船について進行中の捜索を説明した。翌日、極圏著作家の一団がロンドンのケンサル・グリーン墓地に行って、そこに眠る北極探検者に敬意を表した[87]。マクルアーの墓は探すのが難しかったが見つかった。とくに彼の記念碑が将来保存されることが期待されている。フランクリン隊を探した多くのベテラン達、ホレイショ・トマス・オースティン提督、ジョージ・バック提督、エドワード・オーガスタス・イングルフィールド提督、ベッドフォード・クラッパートン・トレベリアン・ピム提督、ジョン・ロス提督がそこに埋葬されている。フランクリンの尊敬すべき妻ジェイン・グリフィンもケンサル・グリーンの地下室に埋葬されており、その姪であるソフィア・クラクロフトに捧げられた大理石十字架で記念されている。, 1850年代から現代まで、フランクリンの失われた遠征隊は多くの文学作品にヒントを与えてきた。中でも最初のものはウィルキー・コリンズが書いた戯曲『The Frozen Deep』であり、チャールズ・ディケンズが補助し、劇制作も行った。この劇は1857年初期にタビストック・ハウスで私的な観衆を前に興行され、さらにロイヤル・ギャラリー・オブ・イラストレーション(ヴィクトリア女王のための御前上演を含む)やマンチェスター・トレードユニオン・ホールでの一般公演も行われた。1859年にフランクリンの死の知らせが、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンのものなど、哀歌をうまれさせた。, フランクリンの最後の遠征に関するフィクションでの扱いは、ジュール・ヴェルヌの『ハテラス船長の冒険』(1866年)に始まり、小説の英雄がフランクリンの足跡を辿り、北極には巨大な火山があることを発見する。ドイツの小説家ステン・ナドルニーの『遅さの発見』(1983年、英訳1987年)はフランクリンの生涯全体を扱い、最後の遠征については簡単に触れるだけである。その他近年のフランクリンを扱ったものとしては、モルデカイ・リッチラーの『Solomon Gursky Was Here』、ウィリアム・T・ヴォルマンの『ザ・ライフルズ』(1994年)、ジョン・ウィルソンの『North With Franklin: The Journals of James Fitzjames』(1999年)、ダン・シモンズの『ザ・テラー 極北の恐怖』(2007年)があり、特に最後の『ザ・テラー 極北の恐怖』は2013年2月にAMCでテレビ映画化されると発表された。この遠征はホラー・ロールプレーイング・ゲーム『The Walker in the Wastes』の主題にもなった。最近のクライブ・カッスラーによる2008年の小説『北極海レアメタルを死守せよ』では、話の中心要素としてフランクリン遠征隊の試練を取り込み、リチャード・フラナガンの小説『Wanting』(2009年)は、フランクリンのタスマニアと北極圏双方の偉業を扱っている。2013年のホワイト・パッセージは、タイムトラベルの概念と失われた遠征隊のもう一つの運命の結果をいれたSF小説のリストを仕上げている。2012年1月12日、BBCのラジオ4ではフランクリン隊に基づく『エレバス』と題するラジオ劇を放送した[88]。, フランクリンの最後の遠征は多くの音楽にもヒントを与えた。その最初のものは『フランクリン夫人の嘆き』というバラード(『ロード・フランクリン』とも呼ばれた)であり、1850年代に始まり、その後多くのアーティストが録音した。例えば、マーティン・カーシー、ペンタングル、シネイド・オコナー、パールフィッシャーズ、ジョン・ウォルシュなどである。他にフランクリンがヒントになった歌としては、フェアポート・コンヴェンションの『I'm Already There』、ジェームス・テイラーの『Frozen Man』(ビーティのジョン・トーリントンを写した写真に基づく)がある。, フランクリン遠征隊のカナダ文学に与えた影響は特に重大なものだった。当代のフランクリン関連バラードで良く知られたものにオンタリオ州のフォーク歌手スタン・ロジャーズの『北西航路』(1981年)があり、非公式だがカナダの国歌と言われている[89]。カナダの著名作家マーガレット・アトウッドは、フランクリンの遠征をカナダのある種の国家的神話として語り、「あらゆる文化で多くの話が語られているが、ほんの少しのみが語られまた語られ、これらの話は試験に耐えることになる。カナダの文学でそのような話の一つがフランクリン遠征である」と述べている[90]。, その他最近のカナダ詩人による扱いではグウェンドリン・マッキーウェンによる詩劇『テラーとエレバス』があり、1960年代にCBCのラジオで放送された。またデイビッド・ソルウェイの詩『フランクリンの航路』(2003年)もある。ドミニク・フォーティエのフランス語で書かれた小説『Du bon usage des étoiles』(星のうまい使い方)は、様々な視点とジャンルからフランクリン遠征を創造的に検討しており、カナダの幾つかの文学賞で候補にもなった。シェイラ・フィッシュマンによる英訳本『On the Proper Use of Stars』も、2009年にフランス語から英語への翻訳作品でガバナー・ジェネラルの文学賞候補になった。, 絵画の世界でも、フランクリン遠征隊の失踪が、アメリカ合衆国でもイギリスでも多くの絵画に刺激を与えた。1861年、フレデリック・エドウィン・チャーチが『氷山』と題する大きな油絵を描き上げた。その年後半、展示のためにイングランドに持っていく前に、壊れた船のマストのイメージを書き加え、フランクリンへの沈黙の弔辞にした。1864年、エドウィン・ランドシーアの『人は提案し、神は処置する』は毎年のロイヤルアカデミー展示会でひと騒ぎ起こした。2匹のホッキョクグマを描いており、1匹はボロボロになった船の旗を噛んでおり、もう1匹は人の胸郭を齧っている。当時は悪趣味とも見られたが、遠征隊の末期について強烈なイメージを抱かされるものとして留まって来た。この展示は、多くの人気ある版画やイラスト、さらに多くのパノラマ、ジオラマ、マジック・ランタンショーにもヒントを与えてきた[91]。. —"Franklin Saga Deaths: A Mystery Solved?" こんにちわ(^^)かわせみです。 本日はイギリスの探検家のお話です。 いつもクドクドとした言い回しですので、 今回はさっさと本編に移ります(^^ゞ イギリスの南極探検家スコットは悲運だった?状況や条件なども調査しました! イギリスの南極探検家スコットは悲運だった? スコット隊はアムンセン隊に1ヶ月遅れで到達。帰路遭難し全滅した。イギリスではこの雪辱をそそぐために1914年に帝国南極横断探検隊が組織された。この探検隊は南極大陸の初横断を目指したが、遭難し … ジョア・ヘブンというイヌイットの集落が、カナダ北極圏史上最大ともいえる歴史的発見を祝っている。この村のイヌイットのハンターによる情報から、168年前に行方がわからなくなっていた英国フランクリン探検隊の船、h.m.s.テラー号が発見されたのだ。 ロバート・スコット『探検日誌』、pp.398-399、「極点班最終野営発見」より。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ロバート・スコット&oldid=81908408, この項目では、イギリスの探検家について説明しています。アメリカ出身の俳優・タレントについては「, アムンセン隊は犬ぞりとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は当初使用した, アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑え、足りなかった場合は犬ぞりの犬も食用としている。一方、スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できない上、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。, アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査などの学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。, アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。, スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ1人だけであった。. Unravelling the Franklin Mystery: Inuit Testimony. 【南極大陸】南極物語や皇帝ペンギン動画をご覧いただきありがとうございます。コロナ渦でなかなか旅行に行けませんが…l今回は『南極大陸』です。今回の動画が旅行計… ): イヌイットが、40人がキングウィリアム島の南を歩いているのを目撃, 1851年(? Woodman, David C. (1992). ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868年6月6日 - 1912年3月29日)は、イギリスの海軍軍人、探検家。南極探検家として知られ、1912年に南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。, 1868年、醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として、誕生。武人の家系であり、13歳で海軍兵学校に入学する。15歳で士官候補生となる。1888年、海軍大学を卒業。, 1899年、少佐だったスコットは、王立地理学協会による南極探検計画を知り、隊長として参加する事を熱望する。翌年中佐に昇進し、その任にあたった。, 1901年から1904年にかけて、第1回南極探検(ディスカバリー号の探検)が行われた。この際、アーネスト・シャクルトンらと共に南極点到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。また、ペンギン生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を得、帰国と同時に大佐に昇進する。1904年には、南極探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1]。, 1908年に、彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚。1909年9月、彼の南極探検計画が発表され、同年12月には自ら予備役に転じ資金調達に奔走する。前回の南極探検は国家的プロジェクトだったが、この時の探検はその立案からスコット個人によるところが大きい。, 1910年から1912年にかけて、南極探検(テラ・ノヴァ号の探検)が行われた。学術調査だけでなく、ノルウェーと人類史上初の南極点到達を競うことになる(後述)が、2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、死去した。43歳没。同年10月に救援隊により遺体が確認され、遺品の一部が回収された。ロンドンのウォータールー・プレイスには、フランクリン遠征を率いての北極探検の半ばに死亡したジョン・フランクリンの銅像と並び立つように、スコットの像が建てられている。この銅像は、キャサリン夫人が製作したものである。, 1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。, 同年ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊は、北極点到達がロバート・ピアリーの米国隊により達成されたことを知り、目標を南極に変更。, 10月12日、オーストラリアのメルボルンに、10月27日にはニュージーランドのウェリントンに到着。ここで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知る。なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取った。両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。この冬の段階で、すでに馬は10頭まで減っている。, 1911年10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は、エヴァンス岬(ロス棚氷)から南極点に向け出発する。雪上車2台による先発隊が10月24日、そしてロバート・スコットが率いる馬ぞりの本隊が11月1日に出発した。, しかし、これに先立つ10月19日には、より南極点に近いクジラ湾からアムンセンの犬ぞり隊も南極点を目指し出発していた。出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、そり犬を譲ろうと申し出ているが、イギリス側はその申し出を断っている。, スコット隊は2台の雪上車を投入したが、これはエンジン付きのそりといった代物だった。スコットの期待に反して1週間足らずで両方ともエンジンが故障し、修復不可能になってしまったため、南下は困難を極める。また、羽織っていた毛織物の防寒具が水を吸って凍り付いてしまい、体温の管理にも支障をきたす。主力の馬も寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが徐々に鈍ってゆく。12月2日、ついに食料節約のため最後の1頭も射殺せざるを得ない状況に追い込まれ、終いには人力でそりを曳かざるを得なくなった。この時点で、4人1組で曳引するそりが3台、犬ぞりが2台となる。, 1912年1月4日に南緯87度32分の地点でグループは分かれ、エヴァンス少佐ら3名が帰還した。最終的に南極点を目指すのはスコット、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウアーズ、ローレンス・オーツ大尉、エドガー・エヴァンスの5人に絞られた。スコットが直前になってバウアーズを加え、当初の予定より1名多い。, 1月9日、かつてシャクルトンが到達した南緯88度23分を越える。翌10日、最後のデポを建設。, 1月17日18時30分頃、スコット達は遂に南極点に到達した[2]。翌18日に英国国旗を立てる。しかしその時は、アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料・防寒具・手紙が置かれていた。, 映画などでは劇的効果を高めるために、アムンセン隊に先を越されたことが南極点到達時に初めて判明したように描写されることが多い。しかしスコットたちはそれ以前にアムンセン隊のそりの滑走痕を視認しており、遅くとも1月16日には彼らに先を越されたことはほぼ確実であると認識していた。, しかしこのような状況にあっても、ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。さらに不運なことに、2月から3月としては例外的な荒天が続いた。また、前年にデポに貯蔵した燃油も、冬と夏の気温差により缶が損傷したため、著しく欠乏していた。, 続いてオーツが足に重度の凍傷を負い、自らを見捨てるよう嘆願するようになった。彼が重体となった3月14日、スコットは日記に、携行していたアヘン・モルヒネの使用をウィルソンに相談したことを記した。3月17日の朝、オーツは「I am just going outside and may be some time(「ちょっと外へ出てくる」)」と言葉を残してブリザードの中、テントから出て行方不明となる。この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。, 3月21日、食料を置いたデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。吹雪は10日間も吹き荒れ、テントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。スコットは日記に1912年3月29日付で「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」と書き残し、寝袋に入ったまま、残りの3人全員がテント内で息を引き取った。, 先に帰還した隊員たちは、2月末までに全員エヴァンズ岬の基地に到着した。捜索隊により3人の遺体が発見されたのは、次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。, テント内では、遺品の他、死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。特筆すべきは、南極点でアムンセン隊から委託されていた[3]手紙である。アムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者に自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものであった。スコット隊が所持していたことにより、アムンセン隊の南極点先達は証明され、また「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声を高めた。, スコット本人の遺書(スコットの遺族・隊員の遺族らに計12通)はイギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという内容のものであった。, スコットたち三人の墓は、1912年10月の救助隊の手によって南極の最後の地に作られた。救助隊はオーツの行方も探したが、スコットが置いたとみられる寝袋のみが見つかっただけで、最終的にオーツの遺体探索は断念している[4]。, スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行っている。中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、スコットたちの捜索隊にも参加したアスプレイ・チェリー=ガラードらは、スコットがアムンセンに遅れをとったことや遭難死に至ったその敗因について、以下のような分析を残している。, この他にも、アムンセンは北西航路の探検時に越冬した際、地元のイヌイットから犬ぞりの使い方や、毛皮を使った防寒着の作り方など、寒帯での生存術を学んでいた。また隊員はクロスカントリースキーが盛んなノルウェー出身だったため、スキーによる長時間の滑走にも慣れていたが、スコット隊はそのような技術や知識を持つ人間がいなかったことも要因とされる。, 何よりも、スコットとアムンセンは南極探検の動機が全く異なっていた。アムンセンは子供の頃から純粋に極地探検を人生の目標としており、南極探検はあくまでもアムンセンの個人的な動機によるもので、探検の途中で重大な危機に遭遇した場合にはアムンセン自身の判断で引き返せる余地もあった。これに対し、スコットは大英帝国の威信をかけた国家事業の代表者として選ばれ、国家の期待を一身に背負って南極探検に臨んでいた。そのため、失敗しても失うのは極地探検家の面目だけの気楽なアムンセンと異なり、スコットは探検の初期の段階で雪上車の故障や馬の全滅といった想定外の危機に見舞われても、国家の期待に背いて引き返すことを潔しとせず、職業軍人としてのプライドもあって、そのまま死へと向かって前進を続ける以外に選択肢がなかったとも言える。, 両者の防寒服は、バーバリー社が開発したギャバジンをベースにしたものであるが、ギャバジン自体には防寒性が無い事から防寒素材を組み合わせることとなった。この選択で、アムンセン隊の防寒服はイヌイットの伝統に基づきアザラシの毛皮などで作られたのに対し、スコット隊の服は牛革を重ねた形状の防寒服であった。通常環境下なら防寒性能に大差はない素材であったが、水上で生活するアザラシに比べ牛革は耐水及び撥水性が劣っている事が致命傷となり、スコット隊の防寒服は汗などの体から出る水蒸気を吸い込み氷結し防寒機能を喪失。結果、スコット隊のメンバーの体温は次第に奪われ、最後は保温の役目をほとんど果たしていなかったとも考えられている。, 南極の最深部の気候はスコットの想定を遥かに超えており、1トンの荷物を曳ける大型馬に至ってはデポ(前進基地)を設置するための往路の段階で次々に喪失しているなど、彼の用意した装備は南極の気候に耐えられなかった。犬ぞりはスコット隊も用いていたが、小規模(アムンセンはスコットの3倍以上の116頭を投入)かつ極めて限定的な補助用途であった。, 前回1901年の南極探検の折、スコットは訓練不足の犬が使い物にならなかった[5]反省として、荷物の移動手段を馬と機械に頼ったのが仇となり、両方とも途中で使い物にならなくなった結果、最終的に人力が主体となってしまった。ただし、人力を主体とすることが必ず失敗につながるわけではなく、事例としてノルウェーのフリチョフ・ナンセンは1888年から1889年にかけてのグリーンランド横断の時、2か月間人力でそりを引き、5人の隊員を一人として欠くことなく探検を成功させている。, 当初、南極点到達隊は4人の予定で資材・食料などを計画していたが、スコット自身の判断で土壇場で5人にしたことも影響を与えたのは否めない。1人の増加とはいえ、4人用テントでの十分な休息は困難となり、荷物の増加に伴い移動時間も増大するなど、探検の末期にはその悪影響が甚大であった。これは、1人でも多くの隊員に南極点到達の栄誉を分け与えたいというスコットの情によるものと考えられているが真相は不明である。なお、最終的にはスコット隊と同数(ただし、アムンセンの場合は8人から減らした結果の5人である)で南極点を目指したアムンセンは、資材の重量増より隊員の休息を優先し、3人用のテントをカスタマイズして5人が十分休息できるテントを作っていた。, スコット隊のルートは約1,500kmと若干長距離であるものの、大部分がシャクルトンなどこれまで数次のイギリス探検隊により踏破済みのルートで、地形やコースコンディションなどはほぼ把握されており、未知の部分は全体の約1割の155kmに過ぎず、リスクは比較的低いと見られていた。一方、アムンセン隊が選択したルートは直線距離こそ若干短いものの、約1,150kmの全行程が未踏破であるどころかベースキャンプを設置する上陸地点からしても、誰も上陸したことがなかったという文字通り手探り状態からのスタートであった。, 結果として、アムンセン隊のコースは比較的平坦なコースでデポの設置も滞り無く行えるなど、本来の位置にデポを設置できなかったスコット隊と対照的な結果となった。しかし、スタート時点ではその事実は判明しておらず、コースの状況次第では大回りもしくは探検中止を余儀なくされていたか、スコット隊と同じく何らかのアクシデントにより遭難していた可能性すらあった。このため、単純に距離の長短をもってスコット隊が不利だったと判断できないという意見もある。, 純粋に南極点到達だけを目指したアムンセン隊と違い、スコット隊は学術的に大きな価値を持つもの(南極がかつてゴンドワナ大陸の一部だったことの証拠であるグロッソプテリスの化石など)が含まれていたとはいえ、35ポンド(約16kg)におよぶ標本を最後まで手放さずに持ち帰ろうとしていた。その分、スコット隊の隊員たちが運ばなければならない荷物の重量はより増加していた。, まず、アムンセンは少年の頃から極地探検家(当初は北極だった)になることを夢見て、必要となる準備を進めてきた。一方のスコットは、南極探検の計画者である王立地理学協会長のクレメンツ・マーカム卿によって隊長に抜擢された。その理由はスコットがたまたまマーカム卿の従兄弟と同じ海軍の部隊に所属していたからである。いうなればスコットの極地探検は、マーカム卿によりお膳立てされていたものであった。このことから、南極行きを志した時点で既に両者の間に「心構え」の差ができていたと指摘している。, また、アムンセンは隊員の自主性を尊重するチームワークで運営したことに対し、スコットはイギリス海軍式の階級制度を取り入れた運営だった点も指摘している。アムンセンの場合は、隊員に装備品の改良の提案を募集するなどし、隊員全員が参画意識を持って自主的に一つの目的に向かえるよう配慮した。一方スコットの場合は、階級制度による上意下達的な隊の運営が隊員の士気にも影響し、細心の注意を払うことができなかったものと推測している。, 西堀は、『仕事というものは自らが強い「やる気」をもってやるのでなければ「細心の注意で」など決してできるものではない』と自らの南極体験から指摘している。さらに、アムンセンはリーダー自らが常に平常心を持って決断し行動できるよう、「行ってみて、無理ならば引き返せばいい」というような楽観的態度を心がけた。一方スコットの場合は、極点到達がアムンセンに先を越されたときに帰途の不安をのぞかせているが、リーダーが少しでも不安顔をのぞかせるとそれが隊員にも伝播し、隊員の不安をもつのらせ、平常心を失わせ、重要なときに物事の判断を誤らせることになったと指摘している。.
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