東日本大震災から、まもなく10年を迎える。震災直後の宮城県南三陸町での極限の日々を克明に綴った『災害特派員』の著者で、気鋭のルポライターとしても知られる朝日新聞記者の三浦英之氏が、あの日、津波被災地の最前線の現場で何を見て、何を感じたのか――。 東日本大震災10年(6)宮城・亘理町でラジオ局開局の苫米地圭さん 電波がつなぐ地域の声 8 教養大卒34歳女性、公募副市長に選出 広島・安芸高田市 東日本大震災に対するアジア諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするアジアしょこくのたいおう)では、東北地方太平洋沖地震 (東日本大震災)に対するアジア諸国の対応について記述する。 東日本大震災で民主党が逃げ回ってる間、安倍首相が何をしていたか知っていますか? 1 : Ψ :2015/05/09(土) 15:52:19.09 ID:Aj+K3PgP0.net たった3人で動き出した安倍 晋三。 東日本大震災から10年となるのを前に、nhkが岩手・宮城・福島の被災した人たちに行ったアンケートで、災害公営住宅の家賃が上がって生活費を切り詰めた人のうち、75%が食費を減らしたと回答しました。専門家は、値上げが住… 2011年3月。巨大地震と大津波に遭遇した人々は何を見、どんな体験をしたのか。発災から10年の今年、NHKでは東日本大震災の記録を後世に残すため、当時撮影された膨大な映像を集めて2本 … 2011年3月13日、津波で壊滅した宮城県南三陸町中心部=山本裕之撮影 (c)朝日新聞社, 東日本大震災から、まもなく10年を迎える。震災直後の宮城県南三陸町での極限の日々を克明に綴った『災害特派員』の著者で、気鋭のルポライターとしても知られる朝日新聞記者の三浦英之氏が、あの日、津波被災地の最前線の現場で何を見て、何を感じたのか――。思いを寄稿した。*  *  * 何度も同じ夢を見た。匂いや手触りのある不思議な夢だ。 最初に立ち上がってくるのは「音」である。暗闇の奥から「シュー、シュー」という漏出音が鼓膜を揺らす。次は「匂い」だ。微かに漂うエタンチオールの匂いから、どこかでプロパンガスが漏れているのだと睡眠下の意識が理解する。 朦朧とした意識の中で、私はいつも倒壊した家屋の上を歩いている。なぜか海まで行こうと決めている。五寸釘が突き出し、ゆらゆらと不安定に揺れる木材の上を綱渡りのようにして歩いていると、海辺のガードレールが突然視界に飛び込んでくる。グニャグニャにねじ曲げられた鉄の帯には――まるで捕虫用の粘着シートのように――いくつもの遺体が絡め取られている。多くが服を着ていない。首から上がない人もいる。 私は悲しんではいない。戦(おのの)いてさえもいない。現実と思考を切り離し、「この光景をどうやって記事にしようか」と文章の構成を考えている。 それでも、不意に足を踏み入れようとした半歩先に、自転車にまたがったまま半分泥に埋まった男の子の遺体を目撃したとき、私は自分が崩壊するのではないかという恐怖に襲われ、無意識のうちに空を見上げる。目の前が曇り、自分が泣いていることに気づく――。 被災地での勤務が終わり、現場を離れてからも見続けるそれらの夢を、一方で私は決してネガティブなものとしては捉えていなかった。強度なストレス下に置かれた人間がそのような夢を見ることはごく自然な反応であるように思えたし、それらはむしろ、「あの日のことを忘れるな」と私をあの日につなぎとめてくれている碇のような役割を果たしていると信じてもいた。 被災地に勤務していたとき、東京からバスで現地を訪れた小学生たちに聞かれた。「どうしてこんなに多くの人が死んだのですか」 私はすぐにはその質問に答えることができなかった。なぜこんなにも多くの人々が死んだのか、あるいはなぜこんなにも多くの人々が死ななければならなかったのか――。 その問いに対する具体的な答えをイメージとして持てるようになったのは、震災から3年を迎えた2014年の春だった。私は招かれたある会合でそのイメージを言葉に変えて会場に伝えた。「原因の一つはたぶん、メディアにあるのだと思う」 被災地で取材をしていたとき、奇妙な光景に何度も出会った。三陸地方の沿岸部では今も至る所に巨大な石碑が建てられているのだ。石面には大抵、明治三陸大津波や昭和三陸大津波における当時の惨状が刻まれている。周囲でどれほどの死者が発生し、どの集落が壊滅したか。かつて有効なメディアを持ち得なかった人々は、目の前の惨状をなんとか後世に語り継ごうと必死の思いで言葉を石に刻み続けていたのだ。 私は今、彼らの気持ちが痛いほどわかる。東日本大震災はその16年前に発生した阪神淡路大震災とは性質が大きく異なる。偶発的に西日本の大都市を襲った直下型地震とは異なり、三陸地方では1896年の「明治三陸大津波」で約2万2000人が死亡し、1933年の「昭和三陸大津波」でもやはり約3000人が亡くなっている。わずか百数十年の間に何度も津波の襲撃を受け、その度にこの地方は壊滅を繰り返してきたのだ。 先人たちはおそらく知っていた。この地に再び大津波が押し寄せ、無数の命が海に奪われるだろうということを。そして、だからこそ伝えたかったのだ。人の命を奪うのは決して津波や地震ではないのだということを――。 頻繁に見る夢の続きを、私は現実の過去として記憶している。泥に埋まった子どもの遺体を足元に見たとき、私は体の芯から声を絞り出すようにして泣いた。そしてその直後、「なぜ我々はこの子を逃がしてやることができなかったのか」と周囲をぐるりと見渡したのだ。 近くに壊滅した小学校や低層造りの病院が見えた。多くの避難民を飲み込んだ海抜わずか数メートルの避難所が見えた。安全地帯の高台へと続く細くて険しい階段が見えた。津波の到来を見えにくくする、高くて不格好な防潮堤の残骸が見えた……。 そして、そんな命を守るべきはずの無数の人工物のなかで、私は「メディアはこれまで一体何を伝えてきたのだろう」と絶望した。今目に映っているすべては、先人たちの警告を十分に語り継いで来ることができなかった、メディアによって作り出された光景ではなかったか――。 人を殺すのは「災害」ではない。いつだって「忘却」なのだ。 そう思えた瞬間、私は自分が何をすべきかを明確に理解できるようになったし、あの日の夢を見ることを恐れなくなった。 発生翌日に被災地に入り、18日間最前線を歩き回った。その後、新聞社が新たに設置した「南三陸駐在」として宮城県南三陸町に赴任し、約1年間、現地の人々と生活を共にした。 今振り返ってみても、当時私が伝えることができた事物はほんの一握りに過ぎなかったし、いくつかの取り返しのつかないミスもした。立ちはだかる現実を前に私の技術はあまりに未熟だったし、ある局面では無力でさえあった。 それでも、被災地を這いずり回った日々は私の中に決して小さくないものを残したし、新聞社が特定の災害地域に記者を長期間滞在させ、そこで実際に生活を送らせながら報道を続けさせたことは極めて異例なことだったと思う。この国でジャーナリズムと向きあおうとする限り、災害というファクター(もちろんそこには未知なる感染症との闘いも含まれている)をもはや避けて通ることができなくなった今、私はそうした自らが犯した失敗や反省を――あるいはそれらに伴う苦悩や後悔の断片を――今後、災害報道に携わるかもしれない後輩記者や将来ジャーナリズムの世界に飛び込もうと考えている若者たちと共有できないかと考えた。 いや、もっと正直に記そう。 私は目に見えない摂理のようなものに抗(あらが)ってみたかったのだ。時を重ねていくにつれて、私の記憶は加速度的に薄らいでいくだろう。日々の雑務にかき消され、あの日の夢を見なくなる日がやがて私にも訪れるに違いない。あるいは、それらが「癒え」や「回復」という言葉に置き換えられるものなのだとしても、私はそれらの摂理には従いたくはなかった。 失われてもいいものと、そうでないものが、この世の中にはきっとある――。 あの日以来、私はそんな風に考えるようになった。(朝日新聞記者、ルポライター・三浦英之), <あれから10年 東日本大震災 福井とのつながり> ふくい災害ボランティアネット理事長 東角操さん, 東日本大震災から10年 津波被災体験を振り返る  いつまでも忘れない 現実から目をそらさないで, <あの日から 東日本大震災10年>「若い世代が考え発信を」 被災地4度訪問の高校生 宮城・山元町の今を報告へ, 地震の2時間半後に襲った津波の最大波 東日本大震災10年、東北から遠く離れた被災地, 「言葉でつながる大切さ」 児童文学作家、被災地の子どもの恐怖を詩に【#あれから私は】. 【漫画】「阪神大震災の被災者が東日本大震災で経験したこと」がとてもイイ話 / 遠く神戸では何が起きていたのか? 東日本大震災から間もなく9年、初めて被災地に行って感じたこと 【重要】本日Yahooで「3.11」と検索すると10円が寄付されます 掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。 東日本大震災から10年…震災直後の南三陸町で送った極限の日々 あの日、記者は何を見たのか?. Copyright 2021 Asahi Shimbun Publications Inc. All rights reserved.No Reproduction or publication without written permission. 「震災を思えば何でも頑張れる」 山田水産の岡田賢二さん【東日本大震災10年】 あの日と向き合う 私と3・11(1) 2021/03/03 03:01. 東日本大震災から10年…震災直後の南三陸町で送った極限の日々 あの日、記者は何を見たのか? 三浦英之 2021.2.11 08:02 dot. 東日本大震災から10年…震災直後の南三陸町で送った極限の日々 あの日、記者は何を見たのか? 三浦英之 2021.2.11 08:02 dot. 2011年3月11日、東北地方を中心に未曾有の被害を引き起こした大震災。あの日、激しい揺れに襲われた列島各地ではどんなことが起きていたのか、その1日をあらためて当時のニュース映像で振り返る。 nhk 2021年3月5日 13時51分 復興庁は、東日本大震災からの復興に関する政府の施策を検証する「復興推進委員会」のメンバーに、プロフィギュアスケーターの荒川静香さんら9人を新たに任命すると発表しました。 Šæ€¥ã‚¢ãƒ³ã‚±ãƒ¼ãƒˆï¼, AERAが猫化した「NyAERA(ニャエラ)」が今年も発売!, 「2021年、政治とメディアは変われる?」星浩さんの講演会開催. 東日本大震災が発生した時は、ちょうど民主党政権ド真ん中の時期で 日本中が絶望の底に沈んでる時だった。 日本が何か間違ったことをしでかすと神の怒りにふれるのかなと思ったものだ。 森の辞任なんかはどうでもいいことだが、 宮城出身の中村雅俊と生島ヒロシ 東日本大震災10年を前に「何とか自分のできることをやろうと」「活動続けていきます! 2021年2月28日 19時21分 Tweet 復興に向けて歩み続ける東日本大震災の被災地。「何か力になれることはないか」と、震災発生直後の岩手県で支援活動をし、その後も岩手県を中心に東北の復興支援に携わるソフトバンクの社員に、被災地への思いと希望を聞きました。
Dvd 著作権 使用料, ツイステ Line 監督生, 恵比寿 あこや ランチ, 東京電力 人事異動 2018, ミッドナイトスワン 川崎 チネチッタ, 根尾 昂 血液 型,